新そよ風に乗って 〜夢先案内人〜

「家に向かってくれる?」
運転手の人にそう告げた、ミサさんの声で我に返った。家に帰るんだ……。ただ呆然と横を車が走り去っていくのを見届けていると、貴博さんの右手が私の袖を引っ張っていたらしく、慌てて視線を戻した。
「とにかく腹減って死にそうだから、食事に行かないか?」
「貴博さん。私……」
「フッ……。二度も誘ったりして、しつこいよな」
貴博さんは苦笑いを浮かべながら、いつの間にか切っていたエンジンをもう一度掛けた。
「貴博さん、違います。待って下さい。食事、食事に連れて行って下さい。貴博さん!」
「聞こえてるから、そう何度も俺の名前連呼しないでくれる?周りを見てごらん」
エッ……。うわっ。
歩道の方を見ると、歩いている人達がみんなこちらを見ている。恥ずかしい……。
「みんな俺の名前が貴博だって事、知っちゃったよな」
「あっ……」
恥ずかしいのは私だけでなく、貴博さんはもっと恥ずかしかっただろう。
「乗って」
「は、はい」
急いで助手席側に回りドアを開けようとすると、横から手が出てきて貴博さんがドアを開けてくれた。
「すみません。ありがとうございます」
貴博さんの方を振り向くと、思いの外、間近に貴博さんの顔が迫っていて慌ててすぐにまた前を向いたが、初めて乗る貴博さんの車の助手席をシートを見た途端、その一歩が踏み込めなくなってしまった。そんな私を不審に思ったのか貴博さんが私の顔を覗き込んでいて、目を合わすに合わせない。
「どうかした?」
何でこういう時に限って踏ん切りの悪い性格というか、気持ちの切り替えが出来ないのだろう。ふとこの助手席にミサさんも座っていたのかという思いが頭を過ぎり、何故かとても座る気分になれなかった。
「私……」
「ここには、ミサは座った事はない。こんな事を、君に話してもいいのかどうか……。いつもミサの車に乗っていたから、俺の車に一度たりともミサは乗った事がないんだ。信じる、信じないは別として」
貴博さん。
「俺は、そこまでミサに頼っていたから。フッ……。因果なもんだな。それが今となっては、俺を助けている」
ミサさんを頼っていた事が、今となっては貴博さんを助けている?
「乗る、乗らないは君の……」
< 58 / 181 >

この作品をシェア

pagetop