恋文の隠し場所 〜その想いを読み解いて〜
 それから2時間、書道教室体験はあっという間に終わってしまった。

 最初の『バナナ』こそ笑われてしまったが、その後は提示された漢字をひたすら練習した。
 集中して文字を書く久しぶりの感覚に、終了後は心地よい疲労感に包まれていた。

「杏凪ちゃん、どうだった?」

 マキちゃんのお迎えに来た光子さんに問われ、「楽しかったですよ」と答えた。

「光子さんは通わないんですか? 先生も見てくれるし――」

「だからダメなのよ! あんな先生に指導されたら、私の心臓が持たないわ〜」

 チラリと先生の方を見て目をハートに変えた光子さんは、早々にエレベーターホールへ向かってしまったマキちゃんを追いかけ「杏凪ちゃん、また仕事で」と行ってしまった。

「宍戸さん、どうでした?」

 そのタイミングで背後から声をかけられ、思わずピクリと肩が震えた。

「ああ、すみません。驚かすつもりはなかったのですが」

「いえ、全然……あ、教室の感想ですよね! 楽しかったです」

「それは良かった」

 先生はニコっと爽やかに微笑んで、新たなチラシを私に差し出した。

「入会、されますか? ご紹介なので入会金は発生しませんが、月謝が5千円でして――」

 先生は書道教室の説明を軽く済ませると、入会の意志を聞いてくる。

「えっと……」

「ああ、迷って当然ですよね。この教室はお子さんばかりですし。でも、少しでも書道が楽しいと思ってもらえたようですし、私はそれだけでこの教室をやっている意味があるっていうか。なので、体験だけでも来て頂いて、私はとても嬉しかったので、無理には勧めませんが……」

 先生は差し出していたチラシを引っ込める。私がほうっと息をつくと、先生は苦笑いを浮かべた。

 集中して文字を書くのは楽しかったし、気分もスッキリした。けれど、月謝を払って毎週通うとなると、話は別だ。
 字がうまくなりたいとか、コンクールで入賞したいとか、そういう野望があるわけではない。社会人の気晴らしに通うのは、何となく他の生徒たちに申し訳ない気がした。

 思案顔のままフリーズしていると、先生は申し訳無さそうに「では、またの機会に」と私に帰るよう促す。残っている生徒は、私だけだ。

 ――私、本当にいいのかな。

 せっかく受けた体験教室、先生は優しくてイケメンで、私自身も楽しく受講できた。
 頭の中で、光子さんが言った言葉を思い出す。

『自分から行動しないと、マイナス思考も消えないわよ』

 光子さんがくれたせっかくの自分を変えるチャンス、このまま無下にしていいの?

「宍戸さん?」

 帰らないことを不思議に思ったのだろう。先生は私の顔色を窺うように、そっと名を呼ぶ。

「あ、あの――」

 私は顔を上げた。

「入会、したいです!」
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