記憶がありませんが、身体が覚えているのでなんとかなりそうです

4.回帰する疑問

 エリックらしき男性が何度も振り返りながら部屋を出て行ったあとも、上手く働いてくれない頭はただ呆然としていた。抓ったことでヒリヒリと痛む頬だけが、やけに現実的みを帯びている。少し力を籠めすぎたらしい。手で労るようにそっと撫でれば、ふわりと温かくなり痛みが引いた。
 
「え……。回復……?」
 
 どちらかといえば対象めがけて思いっきり攻撃魔法を放つほうが得意な私は、繊細な呪文や術式、それに魔力の微調整が必要な治癒魔法が苦手だ。傷口に強力な傷薬を勢いよく貼り付けるようなものだと、先生に呆れられたことがある。そっと、優しく……を意識しているはずなのに、おおよそ治癒とはかけ離れた鬼気迫る表情で挑んでいるらしく、
『治療を受けている者の傷は癒やせても心に別の傷を作りそうだ』
 と、いうのはエリックの台詞だ。憎たらしいことこの上ないが、そんなことは私が一番分かっている。
 
 それなのに意識せずに触って、発動するなんて……。訓練もなしに突然?
 
「あっ!」
 
 もしかしたら医療スライムに全身包まれていた作用かもしれない。その過剰なまでの治癒の力を吸収したとは考えられないだろうか?
 
「どのレベルの治癒魔法ができるかな……」
 
 うずうずと好奇心が疼き出す。徐々に頭が動いてきたのか、新たな可能性を試したくて仕方がなかった。そう、一番手っ取り早いのは実践だ。
 けれど、さすがに誰のか分からないベッドの上で実験するわけにはいかない。どこか広い場所に移動しよう。ついでに服だって万が一に備えて学園の制服に着替えたい。ここから家が近いといいなぁ。
 
 そこまで考えて、やたらとスースーする身体に目線を向けた。
 
「…………なっ!」
 
 何も身に纏っていなかった……と、いう最悪の事態ではなかったものの、肩が紐で心許ない、薄い膝上丈のキャミソールを着用していた。柔らかそうな谷間がしっかりと見えている。
 
「って、え? 谷間?」
 
 驚いて両手で胸を鷲掴む。しっかりとした重量感と、掴まれているという感覚は自分の胸で間違いない。いやいや、こんなに大きくなんてなかった。どちらかといえば、ささやかな部類だったはず。揉めばキャミソールの下で大きく形を変える膨らみ。
 
「あの……何をなさっているのでしょうか」
 
 呆れたような声は目が覚めたときに聞いた、サリィの声だ。いつの間にか戻ってきたらしい。手を離し、エヘヘと笑って誤魔化しながら彼女の方に顔を向けた。
 
「あれ? サリィ、髪切ったの?」
 
 明るいブラウンのウェーブヘアは頬の辺りで短く切られている。私の知っている彼女は、いつからか三つ編みを一つに纏めて、肩に流しているヘアスタイルだ。
 
「えっ! ……ああ、目が覚められたばかりだから、混乱されているのかしら」
「ん? 何て?」
 サリィは顎に手を添えてブツブツと言っているが、私には聞き取れなかった。
「いえ。それより何か御用はございますか?」
「うーん、しいていうなら喉が渇いているし、お腹も少し空いてるかな」
 
「かしこまりました。旦那様にも確認したところ異常はないと仰っていたので、負担にならないようなものをご用意しますね」
 
 すぐに参りますからお待ちくださいね! と言ってサリィは部屋を出て行ってしまった。どうやら眠っていた私をお父様が診てくれたらしい。
 
「そりゃあ、そうか」
 
 ――父であるロジャー・カーライルは偉大なる魔術師である。
 
『私には立派なお兄様たちがいらっしゃるからね。好きなことを勉強させてもらえたのだよ』
 控えめな性格の父はそう言っていたが、魔術師になれたとしても優秀でなければ王宮の筆頭魔術師にはなれるはずもない。エリックと私が学園で優秀な成績を修めているのは、幼い頃からそんな父に特訓を受けてきたからだ。
 
 性格が滲み出たような穏やかな顔で、えげつない攻撃魔法を繰り広げる。もちろん治癒魔法だけでなく、補助も得意だ。そんな万能な父が体調を確認してくれたというなら間違いないだろう。
 
 どれだけ眠っていたのかは分からないが、それでもサリィやエリック(仮)の様子をみるに、身体を動かせなかった時間は短くないはず。けれども私としては一晩ぐっすり眠ったぐらいの感覚で、自分自身でも特に異常は感じなかった。ああそうだ、胸以外は……。
 
 鏡でも確認してみたくて部屋を見渡して、はたと気付いた。そういやここってどこなんだろう?
 
 寝かされていたらしい大きなベッドはおろか、部屋自体も全く知らない所だ。
「どこなのかな……」
 キョロキョロとしてみれば、ベランダに続く大きな窓から見覚えのある建物が見えた。
 
「あ! あれはエリックの屋敷だわ」
 よく見れば何度も訪れたことのあるエリックの部屋から見える景色と、少し角度は違うが一緒だ。ゆっくりと足を床に下ろして立ち上り、歩いても足に異常がないことを確認すると窓を開けてベランダに出た。
「なるほど、ここはエリックのお祖父様たちが住んでいた屋敷ね」
 
 幼い頃、エリックの屋敷から少しだけ離れた場所に、彼の祖父母が隠居していた屋敷があった。優しい彼らが大好きで、エリックとしょっちゅう遊びに行っては、お茶をご馳走になっていた。学園に入学するころ、彼らはこの世界を一周したいと当主の座をエリックの父に譲り仲睦まじく旅立ったのだ。二人で見送りに行った記憶はまだ新しい。
 
 どうして私がここに寝ていたのかは分からないけれど。
 
 小高い丘の上に建てられたホルスト伯爵家は見晴らしが良い。時間のことは頭になかったが、どうやらもうすぐ夕方のようで空が茜色に染まっていた。
 ベランダから身を乗り出すと少し離れたところに、私の家の屋根が見える。この屋敷はホルスト家とカーライル家の境界線でもある、小さな林を挟んで隣に位置しているのだ。父親同士も幼馴染だということが、そもそも私たちが幼い頃から一緒にいる所以である。
 
 それはさて置き。
 
「……やっぱりさっきの男の人はエリックなのかしら」
 
 初めに感じた疑問に回帰する。いきなりキスされたり、抱きしめられたり、わけが分からない。サリィが戻ってきたら聞いてみよう。
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