人魚な王子

第5話

「奏の顔を見てから行こうと思って」

 僕は立ち上がると、にこっと彼女に微笑む。

「ちゃんと僕のこと、応援しててね」

 彼女にそう宣言して、プールサイドへ向かう。
奏が一番になれないのなら、代わりに僕が一番になる。
彼女が泣いて喜んでくれるのなら、いつだってそうする。
そんなの、負けるわけないじゃないか。

 更衣室に入り、羽織っていたジャージを脱ぐ。
スイムキャップをきっちりとかぶった。
距離が200から100になったとたんに、泳ぐ人数が増える。
僕には過去の公式記録がないから、第1組の0番レーンなのには変わりがない。

 プールサイドにずらりと並んだ一番隅っこで、軽く肩をほぐす。
真横に並んだ人間たちが、ちらちらとこっちを見ているのが分かる。
僕を意識してる? 
合図があって、飛び込み台の上に上がった。
100メートルだったっけ。
一回のターンのやつでしょ? 
余裕だね。

 スタートの合図で飛び込む。
そのタイミングだって、もう横を見ながら誰かを待ったりしない。
どんな厳しいルールが課せられていたとしても、そんなものにも負けない。
飛び込んだ水の床の色が変わった。
壁に手をつくと、すぐ足で壁を蹴る。
誰も僕には追いつけない。
泳ぎ終わったら、大会新記録の51秒96が出ていた。

「凄いよ、宮野くん。かっこいい! 優勝だよ、おめでとう!」

 客席に戻ると、奏から話しかけてくれた。
彼女が喜んでくれたら、それでいい。

「ありがとう。かっこよかった?」
「うん。すっごく!」

 これで僕の出番は全て終わったけど、まだ奏の試合が残っていた。
全員の競技が終わるまで、他のみんなも帰らないんだって。
僕はべちゃべちゃする水着を脱いで、制服に着替えていた。
乾いた服の方がいいなんて、すっかり人間になったみたいだ。

 奏のレースが始まる。
彼女の最終レース100mフリーリレーは、4分26秒75の、大会4位で終わった。

「お疲れさま」

 帰りは、会場の外で解散。
夏の日はまだ空に残っている。
みんなはまだ木に囲まれた広場から動かないけど、僕は誰よりも真っ先に奏に駆け寄る。

「ねぇ、今日は一緒に帰ろう。途中まで、一緒に帰ってくれる?」
「うん。私もそうしたい」

 みんなに別れを告げ、その場を離れる。
快く見送ってくれた。
奏の大会記録は4位だったけど、機嫌は悪くないみたいだ。
日差しの落ち着いた夏の街中を、奏と二人で歩く。
僕の隣で彼女は、ずっと自分の話をしていた。
この会場に来るのは何回目だとか、中学の時もここでやって、その時の同級生がどうのこうのとか。

「奏は、なんで泳ぐの?」
「私? 泳ぐのが好きだからかな。結局は、そこだよね」
「泳ぐの好き?」
「もちろん。好きだよ」

 そっか。ならいいや。

「僕も好きだよ」

 彼女はにっこりと微笑む。
僕はそんな彼女の、日に焼けた頬から首筋に視線を移す。
さっきまで漬かっていた水のせいで、僕と奏からは同じ臭いがする。

「そうだ。宮野くんの優勝祝いしようよ。大会新記録だよ。特別に私がおごってあげよう」
「おごる?」
「なにか食べたいものを、買ってあげる」

 彼女の手が、僕の肩にかけた鞄のベルトを引っ張った。
すぐ近くにあったコンビニにつれて行かれる。
扉を開けるとコンビニ独特のチャイムがなって、店内の冷えた空気がふんわりと体を包む。

「なにがいい?」

 そう言って彼女は、アイスケースをのぞき込む。
彼女と学校の外で二人きりになるのは、思えばこれが初めてかもしれない。
ケースの縁に置かれた手に、触れないくらいのギリギリの距離で自分の手を置く。

「奏は何が好きなの?」

 それなのに、うっかり肩と肩がぶつかってしまった。
そのまま嫌がって離れていってしまうかと思ったのに、彼女はそのままそこにいる。

「わ、私は、宮野くんの好みを聞いてるの!」

 肩同士がぶつかってしまったことを、奏は恥ずかしがっているみたいだ。
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