灰色の世界で、君に恋をする
3.
「とりあえずさ」
と隣に座るユキは、照れたように前を向いたまま言った。
「ええと……自己紹介しよっか」
「う、うん、そうだね……!」
私もやっぱり照れていて、顔を直視できずにぶんぶんと頷く。
さっきはお互いびっくりして、思わず見つめあってしまったけど、冷静になればとてもそんな大胆なことできるはずがなかった。
ああダメだ、と私はぎゅっと手を握りしめながら思う。心臓がまた、壊れかけの秒針みたいに高速で動きだす。今度こそいよいよ壊れてしまいそうだった。

「俺は……」
「私は……っ」

声が重なって、「あ、ごめん」とまたふたりとも黙りこくってしまう。これじゃいつまで経っても自己紹介すらできない。
いつの間にかすっかり夜になっていて、教会の中までどんどん暗闇が入り込んでくる。隣にいるユキの顔も、暗闇の中でははっきりと見えなくなっている。
これなら、と思いちらりと隣を見たとき、
「俺は真嶋由貴っていいます。……よろしく」
とユキが堅苦しい口調で言った。
「私は、櫻田祈、です」
よろしく、と言ったつもりが、途中で途切れてしまった。

――ユキは、ユキだった。

胸の内側が熱くなる。今までニックネームだったのが、初めてフルネームを知った。
それからどうしたらいいかわからなくて、ぎこちなく握手をした。とりあえず握手でもしとこうか、そうだね、というふうに。
「えっと、一応聞いとくけど、年齢は同じだよな。じつは中学生だったり、20歳超えてるとかない?」
「な……ないよ!ちゃんと17歳だよ!」
「あはは、そっか、安心した」
ユキが笑ってくれたおかげで、少しだけ緊張が緩んだ。

「ところで、あの……なんでそんな泥だらけなの?」
「ああ、これ」
ユキはシャツをつまんで苦笑した。
「来る途中に崖から落ちたり川で溺れかけたりイノシシに追いかけられたり、色々あってさ」
「えええっ!?た、大変だったね……」
「まあね。そっから全速力で自転車漕いでたら、ここに着いてた」
「すごいね」
悪いと思いつつ、私は思わず笑ってしまった。
「じつは私も、色々あったんだ」
昼間のことを話すと、ユキは思いきり顔をしかめた。
「……最低だな、そいつら」
ユキが不快そうに顔を歪ませた。
「頭の傷はもう大丈夫?」
「傷はなんとか。意外と浅かったから」
ほんとうはまだじくじくと痛むけれど、余計な心配をかけたくなくてそう言った。
でも、ユキの顔は歪んだままだ。
「そいつらの特徴は覚えてる?車のナンバーとか、車種とか」
「全然。確認する余裕なくて」
「そっか、だよな……ごめん」
「あ、でもね、親切な人が迎えにきてくれたんだ。草壁さんっていう人」
「草壁?」
「うん、いっこ上の男の人で、背が高くて、すごくいい人なの」
「へえ……」
ユキは急に素っ気なく答える。
なんか気に障ること言ったのかな。やっぱり男の子との会話って難しい……。

「――でも、よかった」

ユキがふいに、ため息みたいに言葉を洩らした。
「え?」
「うん。イノリが無事でよかった。あ、怪我してるから、無事じゃないのか」
「ううん、大丈夫」
私は首を横に振った。
本音を言えば、頭の痛みよりも今は、目の前のことで心臓のほうがどうにかなりそうだった。
意識してしまうと、途端に沈黙が重く感じるようになった。

「あ、そうだ、風見鶏……っ!」

「へ?」
いきなり立ち上がった私を、ユキが驚いて見あげる。
「あのね、行くところに困ったらとりあえずここに行けって、草壁さんが教えてくれたの」
私は藤也に書いてもらった地図を開いて見せた。
「じゃあ、行こうか」
とユキが立ち上がって、さりげなくスーツケースを持ってくれる。
「えっ、いいよ、そんなに重くないし」
「いーよ。どっちも荷台に乗せるから」
ふっと緩ませた優しい顔に、私はまたどきどきしてしまう。

外に出ると、あたりはもうすっかり夜だった。月も星もない真っ暗な空の下を、街頭の明かりを頼りに私たちは歩いた。
ユキが自転車を押して、私がその隣を歩いて。
それは、いつか見た夢の光景に少しだけ似ていた。
私とユキが同じ学校に通っていて、学校帰りの夕暮れの道を2人で並んで歩く。
夢で見たことが、形を帯びて、現実になっていく。名前を知って、声を聞いて、笑いあって。ユキは私よりも5センチくらい背が高くて、目を合わせるには私は少し見上げる必要がある。
私は制服を着ていないし、鮮やかな夕焼けはどこにもない。想像していた状況も場所も、まるで違うけれど――
「どうかした?」
とユキが私の視線に気づいて首を傾げる。
「なんでもない」
私は首を振る。そして、やっぱりすこし泣きそうになってしまう。

――ずっとこの時間が続けばいいのに。

そう願わずにはいられなくなる。



その店は、市街地から少し離れた雑木林の近くにあった。
昔ながらの民家が道沿いにぽつぽつと緩い間隔で連なっている。街灯がぐっと少なくなり、民家の明かりが星空みたいに暗闇を淡く照らしている。
暗闇の中に、『喫茶風見鶏』と書かれた看板が浮かびあがってきて、ホッとした。
木造モルタルの二階建て。扉には『OPEN』の札があり、木枠の窓から黄色の明かりがぽうっと漏れている。木目調の扉を押すと、頭上でカラカラと鐘が鳴った。
「こんばんはー……」
おそるおそる声をかけると、
「いらっしゃーい」
と奥からお店の人らしい女性が顔をだした。
「祈ちゃんよね。待ってたよ」
彼女は目を細めて笑った。優しそうな人でよかった。
「はじめまして。えっと、草壁さんにここを紹介してもらって……」
「だいたいのことは聞いてるわ。あたしがこの店の店主の、梅村紫乃。よろしくね。そちらは?」
「祈の友達の真嶋由貴です。よろしくお願いします」
とユキは頭を下げる。
「若いお客さんは大歓迎よ」
紫乃さんは喜んで招き入れてくれた。
笑顔が柔らかくて、優しそうな人でよかったとホッとした。

「そうそう。お腹空いてるだろうと思って、簡単なものだけどご飯用意しといたの」
「ええっ!そんな……」
「いいのいいの。自分ののついでだし」
そう言いながら、紫乃さんは返事を待たずにてきぱきと動きだす。有無を言わさぬ物言いに、私たちはしずしずとカウンター席についた。
やがてキッチンからおいしそうな匂いが漂ってくると、お腹が急に空腹を思い出して待ちきれなくなる。
ナスとキノコが乗った和風オムライスだった。スプーンを入れると卵がとろりと零れるように割れて、中から香ばしく香るバターライスが出てきた。
「「おいしいっ!」」
「あはは、君たち息ぴったりね」
笑われて、ふたりして照れた。
和風ソースはさっぱりしていて喉をすっと通っていく。これほどまでにお腹を空かせたことも、満たされていく感覚の心地よさを感じたのも、初めてだった。

「ごちそうさまでした」
心を込めてそう言うと、
「そうだ、2人ともココアは好きかしら」
「ココア?」
「今材料切らしてて、ココアとお茶しかないのよね」
紫乃さんが申し訳なさそうに言った。
「ココア、好きです!」
そう言うと、紫乃さんは「じゃ、ちょっと待ってて」と再び奥に姿を消した。
「いただきます」と言ってカップに口をつけたときはそれほどでもなかったけれど、ココアそのものは適温以上に熱々だった。
ふうふう吹いて冷ましていると、ユキが噴き出した。
「イノリ、猫舌なんだ」
「なんでユキはそんなに普通に飲めるの?」
熱々のココアを、ユキは信じられないことに、冷たいのと同じようにごくごくと飲んでいる。
5分くらいして、私はようやく飲めるようになった。8月に熱いココアを飲む機会なんてそうそうないけれど、今はいつもの夏と違って肌寒さすら感じるから、むしろありがたかった。
紫乃さんが作ってくれたココアは、今まで飲んだどのココアとも違っていた。自分で作るときはどうしても粉っぽい感じになさらりとして、ちょうどいい甘さだった。あまりにおいしくて、私はおかわりをしてしまった。
「すごい。どうしたらこんなにおいしく作れるんですか?」
そう尋ねると、
「そりゃあもちほん、企業秘密よ」
と紫乃さんは得意げにふふふと笑った。

交代でお風呂を借りて、寝支度を整えた。
「本当にありがとうございます」
「いいのよ、部屋はたくさん余ってるから」
紫乃さんは、少し寂しそうな顔を浮かべた。
「旦那はもうずっと前に病気で亡くしてるし、娘も帰ってこないしね」
「えっ?」
「家を出たきり、ずっと連絡がとれないの」
不安を零すみたいに、紫乃さんはぽつりと言った。
お皿を洗う手が止まっていた。なんて言っていいかもわからずに、私は手に泡をつけたまま固まってしまった。
「ああ、なんかしんみりしちゃったわね。ごめんね」
紫乃さんははっとしたように、明るい笑顔に戻った。
「いえ……」
曖昧に頷きながら、私は、頭の中でお母さんの顔を浮かべた。
プライドが高くて見栄っ張りで、子どもに自分の理想ばかり押しつけて。いつもピリピリしていて、不機嫌そうで。私は昔から、お母さんのことがあまり好きじゃなかった。
生まれて初めて、親とケンカをした。初めてあんなに大きな声を出した。今まで一度だって、言われたことに歯向かったことなんてなかった。
心配してるかな。まだ怒ってるかもしれない。家出するような娘はうちにはいりません。そう言って追い返されるかもしれない。

「きっと、帰ってくると思います」

痛みを紛らわすように、私は言った。なんの根拠もないし慰めにもならないのは、わかっているけれど。
「そうね」と紫乃さんは言った。
「信じて待つしかないのよね。だってたったひとりの家族だもの。あたしが待たなきゃほかに誰が待つっていうのよ、ね?」
私が事情を話したら、明日にも帰りなさいと言われるだろうか。
そう思ったら、なにも言えなくなった。

「おやすみ」と言って、ドアを開けた。
私は紫乃さんの娘さんの部屋へ、ユキは旦那さんの部屋へ。私は娘さんのパジャマを着ていて、ユキは旦那さんのパジャマを着ている。娘さんは背が高かったのか、私には少し大きかった。
「なんかそれ着てると、イノリ幼く見えるな」
おやすみと言ったのに、ユキが私を見て笑う。私はむっとして言い返そうとするけど、
「ユキだって……」
「ん?なに?」
からかうように少し口角をあげたユキに、私は言葉を詰まらせる。
紺色のパジャマは、まるでユキのために用意されていたみたいにぴったりだった。さっきまでのボロボロの私服から着替えてさっぱりしたユキは、なんだか大人っぽく見えて、少しどきりとしてしまった。
「――お、おやすみっ!」
まともに目を合わせられなくて、もう一度そう言った。
「うん。おやすみ」
ユキがおかしそうに笑って返した。
ぱたん、とドアを閉めた。静寂と、心残りみたいな寂しさがじわりと残る。
娘さんの部屋はきれいに整頓されていて、あまり物がなかった。ラックに上着が数着とバッグがかかっているくらいだ。
私は寝支度を整えて布団に入った。電気を消してふっと息を吐き、今日はいろんなことがあったなと振り返ってみる。とても疲れていた。それなのになぜか、眼が冴えていた。

ユキ、と、小さく呼んでみた。
「ん?」
とすぐに壁の向こうから優しい声が返ってきて、ホッとする。
「どうした?」
「あ、あの……そっちの部屋には、なにがあるのかなあって」
とっさに思いついた言葉だったけど、もっとましな話題なかったんだろうかと悲しくなる。
「本がいっぱいあるよ。西村京太郎とか松本清張とか」
「へえ」
本の話になって、私はすこし嬉しくなる。本の話が、いちばん話しやすい。
「あ、これ知ってる。砂の器」
「あっ、それ、読んだことある。おもしろいよね」
「俺はたしか映画で観たな」
「へえ、映画もあるんだね」
映画をほとんど観たことがないんだと言うと、ユキは驚いていた。映画も、ドラマも、漫画も、本以外は全部、うちでは禁止されていた。
「やっぱり、変だよね?」
「いや、変っていうか、避けて通れないっていうか」
「そこまで徹底しなくても、って思うよね」
ふふ、と笑いがこみ上げてくる。
今思えばそんなの変だってわかるのに、反発しようなんて考えもしなかった。親の存在は、私にとって絶対的に正しかったのだ。

今までユキに言えなかった愚痴が、いまはさらりと口から零れた。
きっと、怖かったんだ。自分の暗い部分を見せるのが。だけど今は、そんなふうには思わなかった。
「で、その効果はあった?」
「うーん、あんまり」
中学のころ、友達から借りた漫画を「こんなもの読んでたら馬鹿になる」とお母さんに取り上げられたことがあった。それ以来、漫画を読まなくなった。仲がよかったグループの会話にも入っていきづらくなって、なんとなく距離を置くようになってしまった。
反発しようとは思わなかった。学校での居場所がなくなるより、家での居場所がなくなるほうが、私にとってはずっと大きな問題だった。私はお姉ちゃんみたいに要領がよくないから。せめて言うことを聞かなくちゃ。
今思えば、滑稽なほど必死に、私はその小さな居場所を守ってきたのだと思う。
「貸そうか?」
と、壁の向こうでユキが言った。
「えっ?」
「漫画。気に入ってるやつ何冊か持ってきたから」
「いいの?」
私は思わず声を弾ませた。
「じゃあ、今から――」
そう言いかけたとき、壁の向こうから、ふいに空気を落とし込んだような音が聴こえてきた。
すう、すう、すう……寝息だった。
「ね、寝てる……?」
ええっ?このタイミングで寝る!?
私はがっくりと枕に顔を埋め、ひとりではしゃいでいたことが途端に恥ずかしくなる。

――今からそっちに行ってもいい?

「うわああああ……っ」
思い出して顔が熱くなった。
私、なんて大胆なことを言おうとしてたんだろう。
言わなくてよかった……!

布団を首までかぶって、目を瞑った。そのままユキみたいに寝てしまえたらよかったのに、相変わらず眠気はやってきてくれなくて。諦めて、目を開けた。天井がぼんやり頭の上に浮かんでいる。私の知らない天井。

ああ――私、家出したんだ。

いろんなことがありすぎて、本当に全部自分の身に起こったことなのかな、と思ってしまう。ところどころ夢でも見てたんじゃないのかな。
だけど――、

『俺も会いたい。』

ユキがくれたその短い言葉が、私を動かした。それだけで、効果はバツグンだった。

『私、行きたいところがあるの』

私は言った。行きたい場所がある。会いたい人がいる。
答えは聞かなくてもわかっていた。

『そんなこと、許すわけないでしょう。外はすごく危険なのよ』
お母さんは理由も聞かずに、ピシャリと言い放った。私の話なんて聞く必要がないというように。
『お母さん、安全なところなんて、もうどこにもないんだよ。いい加減、私を解放してよ!』
それは、言ってはいけない言葉だった。言ってしまってから、取り返しがつかないことに気づいた。
お母さんは怒りに震えながら、怒鳴った。
『そんなに嫌なら好きにしなさい。今すぐ出て行きなさい!』

あのときの、お母さんの金切り声が、まだ耳に残っている。
何もかも、初めてのことだった。お母さんに歯向かったのも、叫んだのも、


――ただ、会いたくて。


たったそれだけの気持ちで、自分がこんなに無鉄砲なことができるなんて、知らなかった。
不安はあるし、すごく怖い思いもした。
だけど、ユキがいるから。
ふたり一緒なら大丈夫なんて思ってしまう私は、やっぱり昨日の私とは、全然違うように思えた。
だんだん瞼が重たくなってきて、私は闇に吸い込まれるように、すうっと眠りに落ちた。

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