紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 ドアがノックされ、トレイを持った係員が入ってきた。
「お茶をお持ちいたしました」
「ご苦労様」
 母がソファに体を預けながら笑みを浮かべる。
 真宮ホテルの女帝である母を前にして、緊張した面持ちの係員が震えを抑えながらテーブルにお茶を並べていく。
「他に何かございますか?」
「結構」と、母が人差し指を立てた。「誰も入れないように。いいですね」
「かしこまりました」
 係の人が出て行って、湯飲みを持ち上げた父がお茶を見つめながらつぶやいた。
「言わないなら、署名などできないだろう」
「嫌いになったからです」
「だから、その理由を……」
 父はそれっきり黙ってしまった。
 私が泣いていたからだ。
 肩の震えも、嗚咽も、こぼれ落ちる涙も何もかも止めることができなかった。
「もう、いいんです。疲れました」
 自由になりたいと思っていた。
 自由になれたと思っていた。
 だけど、糸を外され、好きなように踊れと言われたところで、私にはそもそもそんな才能なんてなかったのだ。
 操り人形は操られているのが一番楽なのだ。
 自分で判断?
 自分のしたいことを選ぶ?
 本当はそう思わされているだけ。
 すべて、相手のもくろみ通りに選ばされているだけ。
 君のために……。
 良かれと思って……。
 何のタネもないように見せかけて、手品師が思い通りにカードを選ばせているだけ。
 ――ほら、あなたの選んだのはハートのエースですね。
 最初から分かっていましたよ。
 ――やっぱり君はそれを選んだだろ。
 たいへんよくできました。
 できの悪い生徒を褒めておだててただけ。
 そんな夫を、頼りになる人だなんて、とんだ勘違いもいいところ。
 本当は全部、それを選ぶように仕向けられていただけ。
 私は目隠しをされてただ単に落とし穴に導かれていただけなのに、自分から進んではまり込んだと思って泥まみれになって喜んでいたんだ。
 母がじっと私を見つめていた。
「ようやく気づいたみたいね」
 憎たらしいくらいに自信に満ちた笑みを浮かべながら私を見ている。
「言ったでしょ。あなたはあの男に洗脳されているんだって。親の言うことは聞いておくものね」
 そう、母はいつだって正しい。
 いつだって私は間違える。
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