紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 冷笑を浮かべた母が吐き捨てるように言った。
「あなたは投げ出せていいわね。都合の悪いことは全部人のせいにできて」
 ――なっ……。
「あなたは自分で、『分かる』と言っていたじゃないの。それが急に嫌いだなんて言い出して、あなたの方が理解すべき点も相手にはあるんじゃないの?」
 そして、母がテーブルの上の離婚届に手を伸ばした。
 親指と人差し指でつまみ上げ、折り目の通りに四つ折りに戻したかと思うと……。
 ――あっ。
 母は離婚届をビリビリに破り捨ててしまった。
「私は結婚自体を認めていませんよ。認めていないものを終わらせることだって認めるわけないじゃないの。あなたは自分で決めたんでしょう。ならば、他人に終わらせてもらおうなんて甘えてないで、自分で終わらせなさいな。どこまで私に甘えるつもりなの?」
 その通りだ。
 悔しいけどその通りだ。
 だから私はここに来たんだ。
 たき火におびき寄せられ、自ら炎に飛び込んで身を焦がす蛾と同じだ。
「あなたは私から逃げられないの。逃げようとすればするほど後ろを振り向いてしまう。離れれば離れるほど、帰りたくなるのよ」
 まるで初めて自分一人で買い物に出かけた子供と一緒だ。
 家を出たときは心が弾んでいたのに、不意に帰り道が分からなくなったらどうしようと不安になった瞬間、もう家のことしか考えられなくなってしまう。
 そんなことまで見透かされていたんだ。
「あなたは私から引き離してくれると思ってあの男にすがったんでしょうけど、あの男もまたあなたを縛りつけるだけだった。相手がただ変わっただけ。あなたはいつまでも変わらないの。そして、それを望んでいるのはあなた自身」
 そうだ、だから私はわざわざ地獄をのぞきに来てしまったんだ。
「あの男のおかげで、あなたは私を悪者に仕立て上げることができた。あなたはそれを幸せと勘違いしただけ。自分以外の誰かに責任を押しつけられれば、そんな楽なことはないわよね。でも、それは麻薬みたいなものよ。なんの解決にもなってないんだもの」
 声が聞こえる。
 失敗だよ。
 どうせおまえには何もできない。
 勘違いするな。
 口答えをするな。
 どうせおまえには何もできないんだから。
「やめてっ!」
 息が吸えなくなっていた。
 口がただパクパクと痙攣するばかりで、全然息を吸い込めない。
 求めようとすればするほど苦しさが増していく。
「落ち着きなさい」と、お父さんが背中に手を当ててくれる。
 と、その時だった。
 紫の香りにささやかれたような気がした。
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