紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 久利生さんが机の向こう側で立ち上がった父に手を差し出す。
「では、資本関係の手続き詳細についてはまた後日」
「ええ、どうかよろしくお願いいたします」
 ペコペコと頭を下げながら手を握り返す父の姿を見ると何も言えなくなってしまう。
 そんな私の気持ちを見透かしたのか、腰を上げた母が向こう側から身を乗り出して私にささやく。
「あなたは会社のおかげで生きてこられたのです。会社のために尽くすのが当然です。わがままなど言える立場ではありませんよ」
 お母さん……。
 これが当たり前だって言うの?
 言葉を発しようとした瞬間、体が震え出す。
 ああ、まただ。
 いつもそうだ。
 私は母に口答えなどできない。
 親の決めたとおりに操られるお人形さん。
 父も母も会議室を出て行ってしまった。
 和樹さんは悪い人ではない。
 でも、私にとって何でもない人だ。
 財閥の御曹司が集まる幼稚舎からのエスカレーター組で一流私大に進み、財産や地位に守られて自分の人生に何の疑問も持たないような人だ。
 それは私も同じかもしれない。
 みんながうらやましがるような何不自由のない生活を送ってきた人間同士だ。
 だけど、だからといって、お似合いの結婚だなんて、そんなふうに決めつけないでよ。
 ――ああ、もう嫌。
 これからもそうなんだ。
 結婚しても家のため、会社のために、自分を犠牲にして生きていかなければならない。
 子供が生まれたって、私と同じように何不自由のない生活を押しつけられるんだ。
 重役たちが退室し、静かになった会議室で私は立ちすくんでいた。
「紗弥花さん、僕はずっとあなたのことが好きでした」
 和樹さんが私の隣で何か言っている。
 その言葉は耳には聞こえるけれど、心には一言も入ってこない。
「紗弥花さん、急に話がまとまってびっくりしたでしょうけど、僕が必ず幸せにしますから」
 いきなり手を握られそうになって、思わず私が飛び退くと、不意に紫の香りが漂ってきた。
「失礼、お先に」
 経営コンサルタントの男が冷笑を浮かべながら私たちの脇をすり抜けて出て行く。
 その時だった。
 私の中で張り詰めていた糸がプツンと音を立ててちぎれ飛んだ。
 なんでこんな初対面の人にまで笑われなくちゃならないの。
 何にもできない操り人形のお嬢さん。
 あからさまに馬鹿にされて、大事な物をすべて取り上げられて。
 どうせ私なんか、産業廃棄物より価値がない人間なんだ。
 なら、全部捨ててやる。
 私の大切なものを全部ゴミ箱に捨ててやる。
 本当にゴミみたいな女になればいいんだ。
 私は婚約者を放り出して冷徹なコンサルタントの後を追いかけた。
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