新そよ風に乗って 〜焦心〜
耳元でそんな悪夢のような声を聞かされて、背中がゾクッとした。
「あれ? 高橋は?」
「い、今、会議中です。呼んでき、きましょうか?」
「ああ、いい。メモ残していくから」
そう言うと、遠藤主任は中原さんの机の上に置いてあったメモ用紙に立ったまま書き出した。
早く、早く居なくなって欲しい。
さっきのことが、嫌でも思い出されて気分が悪くなりそう。
メモ用紙を切り取る音がして、その音にすら敏感に反応してしまい、慌てて書類を見るふりをしていたが、神経は遠藤主任の方に集中している。
すると、見ていた書類の上に、遠藤主任が右手を置いた。
「な、何でしょうか?」
慌てて勢いよく立ち上がったので、遠藤主任が書類の上に置いた手を咄嗟に離すと、その手の下に置いてあったのだろうか。ひらひらとメモ用紙が舞って、中原さんの席を通り越して床に落ちていった。
「あっ……」
すると、小さく遠藤主任が声を出したのが聞こえた。
その床に落ちいったメモは、ちょうど戻ってきた高橋さんの綺麗に磨かれた革靴のつま先の前に落ちて、直ぐに高橋さんがメモを拾うと、高橋さんは私を見た。
「また、出直してくる」
エッ……。
遠藤主任は、急いで高橋さんの横をすり抜けるように出て行こうとした。
「遠藤。ちょっと、待て」
な、何?
高橋さんの声は、何時になくとても低く、視線はそのメモに向けられていた。
「ゴメン! 時間ないから、またにしてくれ」
すでに歩き出していた遠藤主任は、振り向きざまそう言うと、事務所を出て行ってしまった。
高橋さんが拾ったメモには、何が書いてあったんだろう?
すると、高橋さんがこちらをジッと見ていることに気づき、慌てて目を逸らせようとしたが、何故か瞳が金縛りにあったように視線を逸らせずに高橋さんと目が合ったままになってしまった。しかし、高橋さんは何も言わずに右手にしている腕時計を見て、直ぐに机に戻って資料を纏めてジャケットを羽織ると、内ポケットにペンをさした。
「会議に行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「い、行ってらっしゃい……」
高橋さんが席を外して、ホッとしたような、しないような。複雑な思いだった。
いったい、遠藤主任はメモに何を書いて高橋さんに渡そうとしたのだろう。メモを読んだ時の高橋さんの表情は、とても険しいものだった。何だか、嫌なことばかり起きて胃が痛い。
「何か、あったの?」
エッ……。
不意に中原さんから声を掛けられて顔をあげると、中原さんが心配そうな表情でこちらを見ていた。
「あっ……。そ、その……何でもないです」
中原さんは、両手を上下に擦らせて挟んだペンを回しながら、優しく微笑んでくれた。
「仕事の悩みは、上司に相談するといいよ。そのために、高橋さんが居るんだからさ。頼りないけど、身近に俺も居るから」
中原さん……。
「ありがとうございます」
中原さんにまで心配を掛けてしまって、申し訳ないな。もっと、しっかりしなくちゃ。
しかし、その後、高橋さんが会議から戻ってきてからは、何事もなかったように普通に仕事をしていて先ほどの遠藤主任とのことは、メモの話も出なかった。
週明けの6日ということもあり、金曜日からの流れで少し残業をしてから事務所を出てエレベーターに乗ると、2階に着く直前、高橋さんが中原さんに鍵を差し出した。
「矢島さん。送っていくから、鍵頼むな」
エッ……。
「分かりました。それじゃ、お疲れ様でした」
「お疲れ様」
2階で中原さんと一緒に降りようとしていた私を、高橋さんが引き留めた。
「矢島さん。送っていくから」
「あ、あの、でも……」
高橋さんが閉のボタンを押して、エレベーターのドアが閉まってしまった。
嘘でしょう?
「高橋さん。あの、まだ早いですから電車で帰れます」
帰れるというより、寧ろ電車で帰りたかった。
「大丈夫だ。腹も減ったし、話したいこともある」
「えっ?」
話したいこと? 
何だろう?
「話したいこと……ですか?」
高橋さんを見上げると、小首を傾げながら私を見ていた。
「そう。それじゃ、決まりな?」
駐車場に着くと、高橋さんは助手席のドアを開けて私を乗せてくれた。
連れて行ってくれたお店は、せっかく美味しいお豆腐屋さんだったのに、何だか落ち着かない気持ちで、話したいこともあると言われた手前、何時それを言われるかと身構えて緊張しながら食べていたせいか、あまり味わえなかった。そして、結局、話は食事中には出なかった。
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