温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜

『泡沫の温度』


 ――十年前の六月十日。
 その日はとても晴れていた。

 僕には、歳が十も離れた兄がいた。
 兄の名前は綿帽子(わたぼうし)(きずな)
 頭が良く、格好良くて、自慢の兄だった。

 兄は僕に優しかった。僕はいつも、兄の奏でるヴァイオリンを聴きながらリビングの床に転がって眠っていた。

(つむぎ)。そんなところで寝てたら風邪引くだろ。眠いなら部屋に行きな』
『いいの。ここで寝るの』

 幼かった僕は、舌っ足らずな声でいやいやと首を振る。そんな僕を、兄は苦笑しながらも優しい顔で見つめていた。

 ある日、兄は真剣な瞳で僕を見つめた。

『紬。ほら、こっちにおいで。大事な話があるんだ』
『なあに?』

 僕はてくてくと兄の元に寄っていく。

『明日の夜、父さんと母さんは海の先の国から帰ってくる。けど、俺は明日ちょっと出かけなくちゃならないんだ。二人が帰ってくるまで、一人でお利口にお留守番できるか?』

『うん! できるよ!』

 僕は深く考えずに頷いた。

『よし。じゃあ、これをやる。その代わり、ちゃんとここで、静かに留守番してるんだからな?』
『くれるの? でも、これはお兄ちゃんの大事なものだよ』

 兄が僕に差し出したのは、いつも大切そうにつけていた深紅のピアスだった。

『いいんだ。俺はもう付けられないから』
『どうして?』
『お前にやりたいんだ』
『ありがとう! お兄ちゃん!』

 それは、兄が僕にくれた最初で最後の贈り物。
 今思えば、どうしてあのとき気が付かなかったのか。

『でも、お利口にしていられなかったら返してもらうからな?』
『ぼく、ちゃんとお利口にお留守番してるもん!』

 翌日、兄は出かけたきり帰ってこなかった。

『お利口にお留守番している』と約束をした僕は、外に出ちゃいけないと思って、三階の窓から兄が戻ってくるのをずっと待っていた。

 けれど、窓の景色の中、遠くに兄の影が見えたような気がして、僕は嬉しくなって玄関へ向かった。

 直後、大きな音と揺れで、僕は階段を踏み外して転がり落ちた。

 次に気がついたとき、頭が痛くて、触った手のひらには血がべっとりとついていて驚いた。すごく痛かったけれど、兄が心配で僕は泣きながら外へ出た。

 家の前には異様な光景が広がっていた。

 上空には真っ赤なカーテンのようなレースがたなびいていて、辺りの家の屋根に絡みついていた。まるで巨人がこの街全体に切り刻んだ布を被せたみたいに。

 レースはある一点に続いていて、僕はそれを辿るように歩いた。
 周りには誰もいない。

 僕によく話しかけてきた隣の家のおばあちゃんも、向かいの怖いお爺さんも。道路には車も走っていなくて、電車も止まっていて、どこの家の明かりもついていなかった。

 みんな、街から忽然と消えてしまっていた。

 世界には僕一人しかいなくなってしまったかのように思えて、僕は恐怖を覚えた。

 頭は痛いし、足もくじいたのか上手く歩けない。
 でも、行かなきゃ。
 なぜか足は真っ直ぐにその場所へ向いていた。

 そしてたどり着いた先にあったのは、深く、(くら)い穴。それを見た瞬間、僕は幼いながらに理解したんだ。

 あぁ、兄はあの昏い穴に落ちていったんだと――。

 ――朝を知らせるテレビの音に、僕はゆっくりと目を開く。目の縁には透明ななにかが溜まっていた。

 僕はそれに気付かぬふりをして、むくりと起き上がると、顔を洗いに洗面所に向かう。

 冷たく肌を殴る水にすっかり目を覚ますと、僕はピアスを耳につけ、制服を着た。

 花籠(はなかご)学園の制服は、黒いシャツに裾の長い純白のジャケット。パンツは黒のチェック柄で、ネクタイは白地に黒のラインの入ったシンプルなデザインだ。

 殺風景なリビングに戻り、赤いカーテンがちゃんと窓を隠しているのを確かめると、僕は鞄を持って寮を出た。

 僕には兄がいた。兄は、何者かに殺された。
 そしてそれは僕の胸に深い傷を刻み、消えることはない。

 運命はあのときから、いや、そのずっとずっと前から、動き出していたのだ。
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