愛しのディアンヌ
1 出会い
 それは奇妙な出会いだった。ランタンを持っていないので月明かりを頼りにしていたのだが、腐った野菜のクズを踏み付けてしまい、無様に転んだ拍子に石畳に胸をぶつけた私は、うっと呻いた。

 通りには点灯夫や夜警の隊員がいるけれど、工場付近の路地裏は客引きをする娼婦の姿おらず閑散としている。

 ようやく坂の上の下宿の共同の玄関に辿り着いたのはいいが、困った事に上着のポケットに入れていたはずの部屋の鍵が無くなっていたのだ。このままじゃ部屋に戻れない。

「あのう。合鍵を貸していただきたいんですけど」

 玄関の脇にある管理人の部屋に向かうと寝巻姿の老女のジャンヌが寝出てきた。その髪は枯れ草のようにボサボサで顔と首筋には深いシワが刻まれている。

 こんな時間にいきなり叩き起こされて不機嫌なのだろう。

「もう勘弁しておくれよ。夜中の十一時だよ。脚が痛いんだよ。五階まで行くのかい? ゾッとしちまうね」

「鍵だけ貸してもらえたら、自分で開けます」

「そうはいかないよ。昔、鍵の束を盗んで売ろうとした馬鹿がいたからね」

 という事で何とか部屋に辿り着いたが、ジャンヌは、どれが、あんたの鍵か分からないと言い出している。

 鍵束は地下の物置も含めて二十七本もあるのだが、色々と試してようやく開いた。

「あっ、ああーー、危ないですよ。下まで送りますから」

「いいよ! 年寄り扱いするんじゃないよ。あんたも、とっとと休みな。働き過ぎると身体を壊しちまうよ」

 声は乱暴だが私の体調を気遣ってくれているのだ。

 私は、隣室の人を起こしたくないので静かにドアノブを回したのだが……。何とも妙だった。不審に思いながらも月明かりを頼りに目を凝していくと、誰かが寝ている事に気付いた。

 浮浪者が侵入したのかもしれない。

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