愛しのディアンヌ
「でも、マダムの我侭で公演を中止にすることが出来るのですか? 僕は、カフェで告知のポスターを見ましたよ。孤児院の慈善コンサートはどうなるのですか?」

「ああ、孤児院のコンサートはちゃんと行なわれるよ」

 彼は、鼻先にかかっている前髪の先端をフーッと吹き上げるように長い溜め息を吐いている。

「しかし、慈善コンサートだから報酬はないんだよ。楽譜の印税が入ってくるまではチビチビと切り詰めて暮らすしかないのさ。日銭を稼ごうにもヴァイオリンも壊れている。見ての通り、八方塞りなのさ」
「ごめんなさい。僕のせいです。すみません。弁償します。おいくらでしょう」

「あはは。それは気にしないでいいよ。君のお菓子を台無しにしちゃったんだからね。チャラにしよう。お互い、恨みっこなしだよ」

 そう呟きながら優しく微笑むものだからハートを射抜かれてしまう。

 でも、絶対に楽器の方が高いのよ。きゃーーーー。いい人。サラッと許してくれるのね。

 私が小さな胸を押さえてドギマギとしていると、こっちを向いたまま不思議そうに問いかけてきた。

「君は、あの日、あんな時間まで何をしていたの? 時計を見てないけど、真夜中に近い時間だったよね」

「夕刻から深夜にかけてホテルの厨房で働いているんです。お皿を洗ったり調理の下ごしらえをしています。あの日はホテルの厨房で火傷の軟膏を作っていました。この下宿には厨房がありませんから」

「火傷の軟膏とポマード?」

 眉根を軽く寄せて聞き返しながら、意外そうな視線でこちらを見返している。私は、少しばかり声を張って誇らしげに説明する。

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