愛しのディアンヌ
 スッと彼は立ち上がっている。そして、優雅に弓を握った。肘を上げ顎の下に装着したかと思うと優美に利き手をしならせて肘を構えたのだ。フーッと深呼吸をしてから、誰もが知っている曲を演奏を開始している。

 えっ。いきなり世界が色を変えている。何も無い空間に音のベールが舞い降り、別の世界に移動したかのような感覚になっている。

 哀切に満ちた繊細な旋律が周囲を満たしていく。

 今、目の前にある光に煌めく初夏の景色なのに……。それが急速に黄昏れていくかのように感じた。 

 普段は淡く微笑んでいる白髪のギャルソンが、音色に引っ張られように振り向いている。ギャルソンは我を忘れて、懐かしげに目元を細めたまま切ない顔を浮かべて聞き惚れている。名曲だから、私も知っている。

【愛する人よ、そばにいて。季節が移り過ぎていく。瞳の中に私はいない。恋は消えた。幻なんていらない。愛の抜け殻。世界は凍る。さようなら。白い世界にあなたはいない】

 演奏が終わっても、涙の雫を濾過したような甘美な余韻が胸に残っている。別の世界へと一気に連れ去られる快感が胸に走る。私も、失恋を追体験したような気持ちになる。胸が震える。みんな、音に吸い込まれている。周囲の人達も感嘆混じりの溜め息を漏らしている。

 凄いの一言に尽きる。音楽って凄い。一瞬にして世界を変えてしまう。

「素敵でしたよ」

 私は目を見つめたまま素直に告げていた。すると、ルイージがニッと笑った。

「ラファイエという職人が作ったものなんだよ。彼は百年前に亡くなっている。これを手に入れられたのは奇跡だ」

「そんなに、いいものなんですか?」

「四輪馬車一台分の価値があるよ」

「ええーー。本当ですか。だけど、ルイージさんは渋い顔をしていましたよね? こんなものは気に入らないって感じの顔つきでムッツリしていましたよね」

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