愛しのディアンヌ
8 二人の夜
「えっーーーーー? チフス患者が出たせいで営業中止ですか?」

 いきなり聞かされた私は、あんぐりと目を剥いてそのまま絶句するしかなかった。

 紺色の制服姿のベルボーイが情けない顔をして教えてくれたのだが……。よりにもよって腸チフスとは何ともやっかいだ。

 ハンサムなべルボーイのレオンが金意色の細い眉を寄せたまま苦々しい声で呟いている。
 
「まったく迷惑な話だぜ。今朝、ピアニストと宝石商が病院に運ばれたんだとさ。楽団のピアニストは重症だ。みんな、吐いたり下したり高熱を出しているんだぜ」

「……はぁ、なるほど。そういうことなんですか」

 複数の従業員と、楽団員が下痢などで体調を壊して寝込んでいて、ロビーは、保健所の職員や警察や野次馬やキャンセルを申し込む客などで込み合っている。

 ホテルの受付のベテラン従業員も倒れている。楽団のピアニストが重症。瀕死の状態になってしまったので、ホテルは無期限の営業停止。みんな不安そうにしている。古参のメイドののメアリーも途方に暮れている。

「どうなることやら! ああ、まったく。ジョルジュ、あんたは何ともないのかい?」

「……はい、おかげさまで元気ですよ」

 私達は常に手洗いには気をつけている。それに、ここの厨房は料理長の意識が高いので清潔だ。

 ゴキブリや鼠の駆除もちゃんとしている。メアリーが断言している。

「ホテルは何も悪くないよ。外国人の楽団員のせいだよ。あいつらが来た時、あたしはたまたま休みだった。あいつらが悪い病気を持ち込んだに違いないのさ」

「はぁ……。そうかもしれませんよね」

 こんな状態では給金の前借りなんて頼めやしない。それに、私は厨房の賄いをあてにしていたのだが、それも無理なのである。私はうなだれていた。

 トボトボと下宿に戻るしかなかった。

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