緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
 明日、最終面接だ。

 誕生日を恋人である克弥と過ごしたが、面接のために早めに別れた。それでも久しぶりに愛を確かめあった菜緒子はうれしくて、心は弾んでいた。だが部屋に入ると、その気持ちは吹き飛んでしまった。

「ウソー!」

 雄叫びの原因はエアコンだった。うんともすんとも言わない。リモコンだろうが、本体だろうが、いかに触ろうが動かない。

「ちょっと待ってよ! こんなに暑いのに、なんで? 今朝まで動いてたじゃない!」

 この時間ではどうしようもない。菜緒子の顔には悲壮感が漂っている。

「明日、最終面接なのに!」

 仕方なくあきらめて母親に告げ、修理を頼む。それから扇風機を引っ張り出してセットし、風呂からあがった時には十二時を過ぎていた。

「もっと早く寝るつもりだったのに!」

 そう愚痴った時、母親が部屋に来た。

「菜緒ちゃん」
「なに?」
「ちょっとでもマシになるかと思って」

 手にしていたのは氷枕だ。

「あ、サンキュ! これはいいかも!」
「明日、頑張ってね」
「うん、ありがとう、頑張るよ!」

 窓を開けて扇風機をつけ、明日の用意を整える。いろいろ確認しながら鞄に入れていき、ふとその手が止まった。

 朱色地の上品な手鏡を眺め、菜緒子の顔が自然と弛んだ。克弥がくれた誕生日のプレゼント。なかなか洒落ているではないか。

(なんか、いい感じ。このまま明日の面接で、サクッと決まっちゃえばいいのになぁ。で、克っちゃんとデート三昧って、どう?)

 うふふと笑い、ベッドに潜り込む。暑くてなかなか寝つけなかったが、それでもいつの間にか眠りに落ちていた。

 時計が深夜二時を過ぎた時刻。草木も眠る丑三つ時。

 菜緒子の部屋でカタンと小さな音がした。たった一度だけ。部屋の主は深い眠りに落ちている。それ以外には誰もいない。時計が時を刻む。

 間もなく「う、ん」と声が漏れた。菜緒子の声だ。ゆっくりと菜緒子の顔に汗が滲み始める。

「う、うぅ」

 声がまたしても漏れた。その声が苦しさを含んでいる。汗はますます滴り落ちる。やがて体をよじって寝返りを打った。

「うぅ、ううぅ」

 苦痛に顔が歪み、汗を滴らせた。

――呪ってやる

(なに? 呪う?)

――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる

(な、に? これ、体が動かない)

――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる

(誰? 誰かいるの? やめて! お願い! やめて!)

――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる

 夢の中、全身血まみれの女が突然現れ、顔をあげてこちらを見た。

――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる

「ひいぃぃ!」

 菜緒子は絶叫し、飛び起きた。

 だが実際は叫んでもいなければ、飛び起きてもいなかった。タオルケットの端を握りしめていただけだ。パジャマもタオルケットも汗でベットリと濡れている。

 あまりの恐怖に起きあがることもできず、しばし息を乱して天井を見つめていた。それからは寝たり起きたりを繰り返す数時間だった。

 朝の目覚めは最悪だった。気持ちも悪い。あまりの汗にシャワーを浴びてスッキリを図ったものの、残念ながら爽快感は得られなかった。

(最終面接なのに!)

 鏡に映る自分の顔の最悪なこと。菜緒子はゲンナリした。気分は地獄の心地だ。それでも支度を進めた。

「菜緒ちゃん、落ち着いてね。ファイトよ!」
「うん」

 母親の激励を胸に家を出る。とはいえ暑さと寝不足でどうにも体が重い。

(頑張らなきゃ!)
(頑張らなきゃ!)
(頑張らなきゃ!)

 何度も繰り返す。頑張ろうと気合いを入れる菜緒子だが、運は向いていなさそうな気配だった。

 早めに家を出て余裕を持って向かったはずなのに、乗った電車は満員。押しに押された上に、思い切り足を踏まれた。

「!」

 これだけ乗っていると、もう痛いだのなんだの言ってはいられない。みんな同じなのだ。みんな我慢している。

(信じられない! こんなに混んでるものなの?)

 高校時代は自転車通学だった。大学時代では一時間目を取っていた一年生の時に多少使ったが、二年生からはうまく一時間目を外していたので、実質ラッシュの時間帯に乗り合わせることがなかった。

 しばらくすると、乗客を介抱するというアナウンスが流れ、電車は動かなくなってしまった。

(マ、マジ?)

 さらになぜかエアコンが効いていないように感じる。動かない満員電車の中、エアコンの効きが悪い状態は、菜緒子に焦りと苛立ちを与えた。

(早く動いてよ! なにやってるのよ!)

 汗が噴き出してくる。時折、周囲の客が動くと、肌と肌が当たってますます不快だった。二十分ぐらいが過ぎた時、電車が動き出した。

(早く!)

 ようやく電車は目的の駅に到着した。

 菜緒子は焦って階段を駆けあがり、面接を受ける会社に飛び込んだ。

 一階のホールはエアコンが寒いほど効いている。今度は汗で濡れたブラウスが肌にピッタリと当たって冷たく感じた。

 受付で名を告げると担当者が行き先を指示してくれたが、同時にトイレの場所も教えてくれた。菜緒子の汗まみれな状態を気の毒に思ったのだろう。

「あちらに見えると思いますが、すべての階で同じ場所にありますから、どうぞご利用ください」
「すみません。ありがとうございます」

 菜緒子はエレベーターに向かって歩き出した。示された階で降りると、受付が設置されていた。だが並んでいる者がいない。自分が最後だと瞬時に悟った。

「本日、面接を受けさせていただく吉岡菜緒子です。電車が遅延しまして、遅くなりました。申し訳ございません」

 言いつつ、遅延証明書を出す。そこに座っていた女性はニコッと微笑んだ。

「始まっていませんので大丈夫ですよ。これは必要ありません。お手洗いはあちらです。まだ時間がありますので、どうぞご利用ください」
「あ、はい、すみません!」

 菜緒子は素直に従い、トイレに向かった。壁に据えられている鏡に映った自分の姿は、確かにトイレを勧めたくなるほど乱れていた。

(最悪! どうしてよ! 三十分も早く家を出たのに私が最後なんて!)

 そんな愚痴を胸の内でこぼしながらハンカチで顔や首筋を拭いた。化粧を直そうとファンデーションを取り出して、再び鏡を見た瞬間、菜緒子は両眼を見開いた。

「ひ!」

 自分を映しているはずの鏡が、独房を思わせる牢屋の中で座り込む着物姿の女を映していたのだ。

 その女は乱れた髪と汚れた着物に血を散らばらせ、第一関節から先がない人差し指をなにかに押しつけていた。

 菜緒子は夢に出てきた女だと瞬時に察した。と同時に、菜緒子の中でなにかがプチンと切れた。

「――――――!」

 声無き悲鳴をあげ、そのまま卒倒した。



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