秘めやかに彼は誘う
休日の朝、遅い朝食を買いにコンビニへ行った帰り、アパートの階段を登って自分の部屋に向かった時、私の隣の部屋のドアが開いた。

反射的にそっちへ視線を移すと、中から姿を見せたのは20代前半の綺麗な男の子。

彼を見て思わずビクッとしてしまう。

「じゃあ・・また」

室内にいる相手を見上げて言った彼の表情は、はにかむように憂いを含んでいる。

そしてそんな彼にドア向こうから返事が聞こえた。

「ああ、またな」

低く色気のある声と共に室内から姿を現した。

その声、その姿に私の視線は彼に釘付けとなる。

背の高いその彼は手を伸ばし目の前の綺麗な男の子の腕を引いて・・唇にキスをした。

ほんの一瞬の軽いキス。

その光景を目の当たりにして息を呑んでしまう。

驚きの次に来る強い胸の痛み・・そして指先の力は抜けて、キーホルダー付きの鍵が手中から滑り落ちた。

『カシャーン』

その場に甲高い音が響き、慌てて2人を見ると2人がこっちを見た。

視線が合ってしまったことに動揺してしまう。

「あっ!」
「あ・・」

私と男の子の口から同時に声が漏れる。

そして無感情な視線を送ってきたのは・・私が日々気になってやまないお隣りさんの黒崎さん。

このアパートに引っ越した初日に入居の挨拶をした時に一目惚れしてしまった、眉目秀麗という単語がピッタリな人。

前髪が目元に掛かっているけど、それすらも色気を醸し出していて、私は一瞬で恋に落ちてしまった。

いつも挨拶程度しか交わしたことなかったけど、私の胸は感動で満たされていた•••のに。

今、キスしたよね。

この凄く可愛い男の子と。

キス•••していたよね?

バグった思考で硬直している私の横を、「すいません•••」と呟いて逃げるように去って行った男の子。

そして立ち尽くす私に黒崎さんの声が降りてくる。

「おはようございます。水原さん」

その声にハッとして彼を見ると、いつもと同じ優しい笑顔。•••とは少し違う。

何かいつもより何か•••目元が•••口元が•••。

何か•••何か•••と軽い動揺をしていると、目の前の笑顔がやたら色気を含み出した。

そして玄関ドアからゆっくりと出てきた黒崎さんは、私の目の前に立って背の低い私を見下ろして首を軽く傾げると、艶を含んだ声で言った。

「美味しいケーキがあるけど、うちでお茶していく?」

『して行く?』って言いながら、何だか有無を言わせないこの感じ。

何故に?この状況で、私はお茶に誘われたのだろう?

挨拶以外の、初めての会話。

憧れの黒崎さんからのお誘い。

その笑顔はただの軽いお茶へのお誘いなんかじゃない。

もっともっといろいろと考えなければいけないのに、私は甘い蜜に誘われるかのように「はい••」と答え、フラフラと彼の部屋へと招かれてしまった。
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