月へとのばす指

 就職活動もできなかったので、卒業からしばらくは、家業の手伝いをして過ごしていた。そうして一年が経とうとしていた頃、藤城社長から、うちの会社で良ければ働いてみないか、と誘いを受けたのである。

『総務事務の子が辞めるらしくて、一人必要らしい。そっちさえよければ働かないか、と言ってるが』

 電話で聞いた話を伝える父親も、一緒に話を聞く母親も、心配そうな表情は隠していなかった。
 フジシロホールディングスに勤務するとなると、実家住まいでは通えない。必然的に一人暮らしになる。何かあった時にどうするか、ということを親ならば当然考えただろう。

 唯花も、不安がまったく無いわけではなかった。けれど、一度ぐらいは実家を出て、自分の裁量で生活したい思いもあったのだ。

 かかりつけの病院で相談し、近くの大きな病院で経過観察を欠かさないという約束のもと、医師の許可を取り付けた。両親もなんとか説き伏せ、無理はしないと約束を交わして、二十六歳で唯花は一人暮らしを始めた。

 その年齢での入社は最初、何故かと勘ぐってくる相手もいたけれど、仕事をきちんとこなすうちに陰口は鳴りを潜めていった。一年でも家業の手伝いで事務補助をしていたのが役立った。

 そして次第に、個人的な付き合いを望んで声をかけてくる男性社員が増えたが、唯花はその全員に対し、申し込みを断った。結婚も出産もできない自分だから、交際などできるわけがない。何も知らない相手に期待させた挙げ句に裏切ることはできなかった。

 そう思い定めて、二年を過ごして。
 アメリカから戻ってきた久樹に出会った。正しく言うならば、二十年ぶりに再会した。

「あら、その花、また久樹くんから?」
「母さん、知ってたの」
「そりゃ毎日届けばねえ。アメリカで活躍して、今は営業次長ですって?」

 すごいわね、と心から感嘆して母親は言う。

「ちっちゃかった久樹くんしか知らないから、今が想像できないけど。唯花から見てどうなの。藤城さんに似てるなら、イケメンに育ってるかしら」
「……うん、まあ」

 いくぶんはしゃいだ口調の母親に曖昧に答えつつ、唯花は久樹と再会した日を思い出す。
 母親と同じく、幼い頃の久樹しか知らなかった目には、彼の成長ぶりは新鮮かつ驚異的に映った。
< 73 / 87 >

この作品をシェア

pagetop