引きこもり令嬢は皇妃になんてなりたくない!~強面皇帝の溺愛が駄々漏れで困ります~
第一章 それまでのことと前触れもない結婚の知らせ
 エンブリアナ皇国は、魔力を持った人々が暮らす魔法国家だ。

 国内には魔法師と呼ばれる特殊能力者たちが存在し、彼らは魔力によって魔法を使う。ここ、オージニアス大陸では他にも魔法国家はあるが、魔力だけでなく、個人の素質による強力な魔法もあるのがエンブリアナ皇国だった。

 そのうえ、この皇国にしか存在していない『家系魔法』と呼ばれる遺伝性の魔法は、他国で類を見ないほど強力だった。

 魔法剣士や戦闘魔法師団の戦力は他大陸も恐れて注視しているほどで、これまで無敗で戦勝してきたという実績でも各国に力が示されていた。

 今では、オージニアス大陸で第七次魔法戦争を起こさないための、抑止力としても重要視されている超大国である。

 大陸間大戦争、同大陸内の第六次魔法戦争でも勝ち続けたエンブリアナ皇国は戦力だけでなく、産業、貿易共にこのオージニアス大陸の三十二の国々の中でも群を抜く経済大国である。

 十七歳のエレスティアは、国内有数の優秀な魔法師一族、オヴェール公爵家の末娘だった。

 物心ついてしばらくした頃に亡くなった母と、瓜二つのハニーピンクの柔らかな長い髪。若草色の瞳は父や兄たちと同じだ。

 オヴェール公爵家の国内での順位は、現在、皇位の『ガイザー』、皇帝に代々仕えた功績から大貴族の『ドゥ』の位を与えられたバリウス公爵に次ぐ上位貴族である。

 国一番の優れた魔法師を輩出し軍の指揮をとったとして、オヴェール公爵位を賜った。貴族である一方では、国軍魔法師としても活躍している。

 強力な魔法によって転移装置も開発し、高い交渉能力から国交関係にも皇国に貢献していた。今やオヴェール公爵家は、貿易においてもバリウス公爵家をしのぐ。

 だが、上の二人と違い、末子のエレスティアだけが魔法の才能はからきしだめだった。

 彼女が使える魔法といえば、たった一つだ。

『〝仲よくしましょう〟』

 魔法師が聞いたら、子供が遊びでつくったようなへんてこな呪文だと顔をしかめるだろう。

 実際、そんな呪文はこの皇国にはエレスティアが発するまで存在していなかった。

 幼い頃、暴走しかけた兄の〝心獣〟にびっくりしたエレスティアが、『仲よくしましょう』と叫んだのが、偶然にも効果を出したという、彼女のオリジナルの魔法呪文だ。

 そこは、優秀な魔法師一族、オヴェール公爵家の娘ともいえる。

 だが、それだけだった。エレスティアは家族のように強大な魔力もなく、心獣さえも持たずに生まれたことで〝凡人〟と認定されたも同然だったのだ。

 ――心獣。

 優秀で強い魔法師が生まれる際に、その胸元から同時に生まれてくる獣だ。雪国にいるような毛並みがふわふわとした真っ白い狼の姿をしていて、主人の成長に合わせて幼獣から成獣へと姿が変わる。成体の大きさは魔力量に比例しており、オヴェール公爵家の心獣たちも人間が二人は騎獣できる大型だった。

 心獣は魔法師の魔力そのものであり、その人間の器に収まりきらない魔力を預かってくれる貯蔵庫のような役割も果たしている。

 そのことから、主人の性格が一部反映されることがあった。

 彼らにとっては魔力の持ち主である主人がすべてだ。意思疎通による説得や命令は効果がなく、他者には牙をむき、徹底して主人を守る性質があった。

 他の心獣とも睨み合うが、相性が合うと仲間と見なすのか襲いかかることはない。

 この皇国内では、自身の心獣を持っているかどうかが、強い魔法師に分類できる一番の〝目印〟だ。

 エンブリアナ皇国が強国として各時代の戦争で勝利を掴んだのも、この特殊な体質で膨大な魔力を操る魔法師とその心獣の存在のおかげだ。

 心獣は、魔力の源でもある主人に向けられた害意を感じ取ると、自分で判断して行動した。そのため強い魔法師の守護獣、とも言われている。

 戦地では魔法師の武器となっても活躍し、襲いかかられた敵国の軍からは『白い悪魔』として恐れられた。

 心獣は主人の成長と共に大きくなる。しかし、魔力で生まれた彼らは食べ物を必要としなかった。睡眠も基本的に不要で、目を閉じて休んでいることがあっても動物のように夢は見ない――とされている。

 だが、個体によっては主人が口にしているものを好んで食べる心獣もいる。

 それゆえ生物なのか、妖精なのか、その実態についてはいまだ議論が尽きない不思議な存在でもあった。

 一族の中で、たった一人、劣等生として生まれたエレスティアには心獣はいない。

(そのおかげで心獣の教育はなくて、楽しい日々を過ごしたわ)

 そう彼女自身は前向きに考えている。

 エレスティアは物心ついた頃に覚醒する魔力もなく、魔法師の素質さえもないとわかり、『普通の女の子として育てましょう』という母の強い希望で、すぐ魔法教育から外された。

 小さなエレスティアが魔法の才能がないことに気づいて嘆いてしまわないよう、そのきっかけをいっさい与えないようにしたのだ。

 魔力や素質がなくとも、大切な娘だと、好きなことをしていいと言われてエレスティアは蝶よ花よと家族に愛情深く育てられた。

 社交もできるだけ免除され、社交界の嫌みからも引き離された。

 過保護気味に安全な屋敷でほとんどを過ごしたエレスティアは、母の願い通り、心優しく穏やかな性格の娘に成長した。

 過保護気味に屋敷からほぼ出ない暮らしに、彼女は満足していた。

 好きなことをしていいと言われて、大好きな絵本を読むことに専念した結果、読書が一番の趣味となった。

『父様の書斎の本も読みたいの!』

 令嬢教育が始まる前、読書欲のためだけに自ら進んで教育開始を両親に宣言した。

 そして、なんと幼少期で難解文字もすべて覚えて、本を読みふけった。

 これはできると、母が驚きつつも彼女が好きな本でつって最高の教育も受けさせた。それをエレスティアが、教科書の文字を読むのが楽しいからという理由だけで難なくこなしてしまったというのは、親族の間でも有名な話だった。

 そんなわけで、エレスティアは勉学ができる少女として、オヴェール公爵一族の中で自身の立場をつくった。もしかしたら親族も味方にならないかもしれないと考えていた父のドーラン・オヴェールは、親族が味方になってくれたことで心底安心したという。

 その日、エレスティアは宮殿で昼下がりから行われた王家主催のパーティーに出席していた。大広間に家族と一緒に入場したところで、見慣れない光景に感心して、口を開けたまま眺めてしまう。

 会場内は貴族たちで溢れ、実に優雅な空気に満ちていた。

 とはいえ、かしこまった集まりではなく、本日は立食形式で昼食を取りがてらのパーティーだ。みんな好きに飲み食いしながら談笑している。

 本日は王家主催の、何かを祝ってのパーティーだ――とエレスティアは聞いた内容をぼんやりとだけ頭にとどめていた。自分たちの後ろからも家族連れで貴族が会場入りしてきているので、予定にある誰かの祝辞の開始をのんびり待っているのだろう。

 だが、彼女はパーティーの目的も出席の二の次なのだ。

「お父様、おじ様は今日いらしていないのですか?」

 エレスティアは家族と進みながら、きょろきょろと左右を見る。

「彼もエレスティアと博士論文のことで話したがっていたよ。領地視察で戻るのは一ヶ月後くらいになる――いやぁ、うちの子はほんとにかわいい」

「お父様? 聞いてらっしゃるの?」

「うんうん、聞いてるよ。今日は宮殿のケーキを父と食べよう」

 ドーランは、精悍な顔をした大男だ。魔法騎士部隊の現役大隊長として知られており、彼が持つ魔法素質は〝火〟だ。

 業火と表現される炎の魔法を使える人間は、才能と強靭な精神と、強い魔力を持ち合わせた一握りの魔法師しかいない。彼は存在している火系のすべての魔法を使えるうえ、高火力で練り上げた炎のオリジナル魔法も最多で持つ大隊長だった。

 冷酷な炎の大隊長として、味方からは畏怖され敵からは恐れられる男――とはいえ、子供の前では一人の父親だ。末子の娘にでれでれとしている彼の顔を見た近くの貴族たちが、目をむいたのをエレスティアは見た。

 同じく、それを横目に見た長兄のリックスがため息をついた。

「父上、冷酷公爵という名がついているのですから、ここでは抑えてください」

「私がつけたわけではない。まったく、ネーミングセンスを疑う。こんなに子供たちを愛しているのに!」

「この年齢で抱擁するのはおやめください!」

 ドーランは、息子の足が浮くぐらい両腕で強く抱きしめた。リックスの悲鳴がパーティー会場内に響き渡った。

 彼は二十二歳の大人なのだが、ドーランはとても大きな男だ。細身の第三魔法師師団長である長男なんて、頭一つ分以上も背が高い父の手にかかれば子供に見える。

(お父様が大きすぎるのよね)

 エレスティアは、約二メートル近くはあろう大男を見上げた。

 すると、二十歳の次男で、第五魔法師師団長のギルスタンも加勢に入った。

「父上、悪目立ちしているのでおやめを! 今日は、ようやくエレスティアが参加してくれたのですよ!?」

「う、うむ、そうであったな」

 ドーランが長男を下ろした。すると襟元を整えながらリックスが、「僕がモテなくなって婚期が延びたら父上のせいだ……」とげんなりしていた。

(そんなことはないのに)

 エレスティアはくすりと微笑む。

 長男のリックスの魔法属性は〝氷〟で、彼が得意とする攻撃手段は氷魔法だ。彼は才能に溢れていて、オリジナルを含めてかなりの数の氷魔法を操る。

 その一方で、次男のギルスタンの魔法属性は〝風〟だ。風魔法を駆使して攻撃や防御をするだけでなく、剣での息もつかせない怒涛の混合戦闘を得意とした。

 けれど、ギルスタンは性格が大らかで感情豊かな人だった。

 プライベートでは戦場の冷静沈着さは見せず、エレスティアを喜ばせ、風属性の浮遊魔法を編み出して楽しませたりしてくれた。

 二十二歳と二十歳の兄たちは、端整な顔立ちをしていた。貴族令嬢たちから彼らに贈り物や誘いの手紙も多く届いていることは、同じ公爵邸に暮らしていて知っている。

(――その一方で、妹の私は小さくて色っぽさは皆無なのよね)

『いやいやっ、父上が溺愛するくらい美貌の母上にそっくりだって!』

 今朝も、パーティーのために身支度を進めながら、エレスティアが容姿に自信がないことをこぼしたら、なぜかギルスタンがツッコミを入れてくれたけれど。

 礼儀と礼節を大事にする長兄に比べ、ギルスタンは明るくて笑顔の多い次兄だ。陽気な性格と嫌みのないころころと変わる表情には正直者の気質が現れており、場を和ませる優しさと聡明さも持ち合わせていた。

 エレスティアが数時間前の家族とのやり取りを思い返していると、突然自分を揶揄する言葉が耳に入ってきた。

「オヴェール公爵令嬢は、引きこもりで本の虫だとか」

「見て、またお兄様たちを引き留めていらっしゃるわ。話したい令嬢もたくさんいますのに、空気が読めないのかしら」

 こうして社交界にたまに出ると、女性たちが囁くように嫌みを言う。

 父と同じく、過保護な兄たちはエレスティアにつきっきりだったので、周囲の女性たちにとって彼女は邪魔な存在だった。

「また、エレスティアの文句を言っているな」

 気づいたリックスが、社交に響かないよう密かにこぼした。

「こちらはオヴェール公爵家だというのに、これだから魔力もなく、教養も低い令嬢は好かない――ちょっと注意してくるよ」

「いいのです。能力を蔑まれているわけではございませんから」

 一族の中で魔法において十分な才能は受け継がなかったとされているが、エレスティアの心獣の噛(か)みつき行動を制限するという最弱で風変わりなその能力は、認められてもいた。

 心獣に対しての防御魔法は皇国でも珍しく、エレスティアのオリジナル魔法呪文は何より注目されているのだ。

 それに、たとえ最弱で風変わりといわれても、エレスティアにとっては、獣に痛い目に遭わされないで済むラッキーな能力なのだ。

 おかげで心獣に怯えることなく、安心して一人でも出歩ける。

「それにほらっ、バリウス様からこんなに貴重な本をいただきましたの!」

 エレスティアは、ばっとその本を掲げてきらきらした目で家族に自慢した。

 途端にドーランが、手に額を押しつけた。

「はぁ。お前が久しぶりに出てきてくれたかと思ったら、やはりエレスティアは、バリウス様の本につられたのか……」

 皇国で皇位に続く大貴族のバリウス公爵は、オヴェール公爵家とは、一族で付き合いがあった。両家の現当主は同世代で、いずれも従兄弟はいても兄弟がなく、二人は政務と軍で、兄と弟の幼なじみのように育ったという。

 バリウス公爵は国のためにとてもがんばっている人で、前皇帝時代から忠誠を捧げて現在も独身だった。多くの貴族、軍人からも信頼が厚い。エレスティアを娘のようにかわいがっていて、彼女の文通相手もしてくれていた。

(二百年前の貴重な本をくださるなんて!)

 この前、オヴェール公爵家にパーティーの招待状が届いたあと、父が全員に確認を取って出席の返事を出して間もなく、エレスティアは屋敷でバリウス公爵からの手紙を受け取ったのだ。

 今回、出席した目的は、もちろん本だ。

 引きこもりを謳歌していた彼女は、今日がどんなテーマのパーティーなのかも知らないでいた。説明はされた気はするが、頭の中は貴重な本のことでいっぱいだった。

「見てくださいっ、アルマン戦記第七章の原題の本です! 古語のまま! タイトルにもロマンが溢れて、もう目次のページだけで素晴らしい文字の羅列が――」

「ああわかったっ、わかったからっ」

 ぐいぐい来られたギルスタンが、もう説明は十分だと言わんばかりにエレスティアの説明を遮った。彼の隣にいたリックスが、やれやれといった感じで彼女が持っている本を眺め、父へ意見を仰ぐ。

「父上、あのお方はいつもそうでしょう。僕としても、何か裏があるのではないかと心配です」

「リックスお兄様、どうしてそう思うの?」

「俺も今回ばかりは兄上に同意だなぁ。そもそもバリウス様のお姿は見えないが、エレスティアはいつ本を?」

 ギルスタンが、あやしいものを見るように本を指差してエレスティアに尋ねた。

「入場して、お兄様たちが受付の方とお話ししている時です。お忙しいそうで、ご挨拶はまた今度、と。運悪くもう一冊を取り忘れてしまったとかで、私が執務室まで取りに行く約束をしたのです!」

 それを聞いた瞬間、ドーランが「不安だ……」とこぼした。

「あの抜け目ないバリウス様が『忘れた☆てへぺろ』だとっ? あやしい、あやしすぎる……」

「父上、落ち着いてください。昔からもてあそばれすぎた後遺症が出ていますよ。でも、確かに、父上には企みが見破られそうで回避した可能性大ですよね」

 リックスが、心配そうに考え込んでいるドーランに同意を示す。

「リックス兄上もその類いだろう、嘘を見抜くのは得意だから」

 オヴェール公爵家は外交と貿易でも活躍している一族なので、魔法力と一緒にそこも磨かれていた。

 ギルスタンも、心配そうに妹を見た。

「しかも『一人で来い』だろ?」

「はいっ! 平気です、お父様たちの社交の足は引っ張りません。もう一冊くださるそうなので、私は一人で取ってまいりますね」

 にっこり笑い返すと、リックスが「まったく、困ったお人だ」とバリウス公爵のことをつぶやき、ため息をつきながら髪をかき上げた。

「当のエレスティアが、こうではなぁ」

 ギルスタンもため息を漏らした。長身揃いの家族に覗き込まれたエレスティアは、よくわからないまま微笑む。すると長兄が「仕方ない」と小さく微笑み返し、手を差し出した。

「その本、戻ってくるまで僕が預かっておこう」

「ありがとうっ、さすがリックスお兄様ね!」

 エレスティアは両手で渡すと、長兄にぎゅっと抱きついた。

 リックスが目を優しく細めるのを見て、ギルスタンが大袈裟に身振りを交え「だめだなこりゃ」と言った。

「エレスティアがこうなのも、父上とリックス兄上が甘やかすからでは?」

「お前も散々甘やかしているだろうに」

 ドーランが、唇を尖らせて指摘する。彼の父としての姿を知らない周りの者には、恐ろしい顔に見えたようで、ざっと人混みが割れていた。

「ギルスタン、考えてもみろ。我が一族はなかなか女子が生まれないだろう。僕は、かわいくない弟よりも、かわいい妹を贔屓する」

「そりゃそうだ。俺も同感」

「息子たちよっ、お前たちはほんっと妹思いのいい子に育って……!」

 ドーランが感動を噛みしめた瞬間、兄たちが抱擁を警戒して父からさっと距離を取った。

「それでは、行ってきますね」

 そのかたわらで会場内の人混みへと進んでいった本のことしか頭にない妹を、兄たちはやっぱり心配そうに見たのだった。

 エレスティアは、すぐに戻るつもりで会場を抜け出した。

(バリウス様がくださるという、もう一冊の本が楽しみで仕方がないわ)

 廊下を足早に進んでいく。髪も結い上げておらず、父考案のフリルたっぷりのドレス姿も、十七歳にしては愛らしすぎた。

 警備中らしき騎士が、彼女ににこっと笑いかける。

 エレスティアも足を止めないまま、にこやかに会釈して彼らの前を通り過ぎた。

(『同じ二百年前の本』と、お茶目にヒントを残してくださったのよね)

 宮殿内は滅多に歩かないが、好きなことに没頭している間は一人で行動するのも平気だった。

 引きこもりだのなんだのと言われているが、それは社交に限ったことだ。

 エレスティアは、新刊を買いに馬車を出して本屋にも結構通っている。

 あまり顔は知られていないという面でも、彼女の心の自由度は高い。彼女は、自分が地味なのであまり目立たないのだろうとも思っている。

 そして彼女が堂々と単独で行動できるのは、何より心獣に噛まれないことが起因していた。

(さっきくださったアルマン戦記第七章の原題の本以外で、二百年前のものだとすると、聖アブヌストの大陸間抗争の手記とか……!)

 今やエレスティアは、バリウス公爵がくれるというもう一冊の本のことを考えるのに夢中だ。

 大昔にあった宗教が違う二派が国々を巻き込んで大戦争になった聖アブヌストの大陸間抗争の手記は、先月、エレスティアが彼と話していた際に聞かされた彼の蔵書コレクションの一つだった。

(たしかバリウス様の執務室は、この廊下を曲がって――)

 そう頻繁に訪ねられない場所だ。道順を思い出しながら角を曲がったエレスティアは、驚いて足を止めた。

 廊下の真ん中に、とても大きな〝心獣〟がいた。

 エレスティアは二人どころか三人乗せても平気そうなその大きな心獣に圧倒されて、目を見張った。そして窓からの日差しに輝く黄金の毛並みが、彼女の目を一瞬にして引きつけ、離せなくした。

(こんな大きな心獣、見たことないわ。しかも白じゃないのも初めて)

 これだけ大きいとなると、とても強い魔法師の心獣なのだろう。心獣自身の力も狂暴性も高いはずだ。

 エレスティアはごくりと息をのんだあと、緊張にこわばりそうになる口を開く。

「……〝な、仲よくしましょう〟っ」

 そう魔法呪文を口にした。こんなに大きな心獣は初めてだが、とにかく、噛まれないことが大事だ。

 すると黄金の心獣が、ぴたりと足を止めた。

「ふぅ、よかった」

 エレスティアは、思わず胸を撫で下ろした。大きさが違っていても、やはり『仲よくしましょう』の、噛まれないための魔法呪文は効いてくれるようだ。

 今のうちにと思って、先へ進もうとした。うなるそぶりもなくエレスティアを目で追っていた心獣が、不意に前を遮ってふんふんと彼女の匂いを嗅いだ。

「ひゃっ。あ、あのそこを通してね……? 私、奥の方へ用があって」

 エレスティアはどうにか脇をすり抜けようとしたのだが、彼女が右に足を進めると、心獣もそちらに顔を寄せ、左から通り抜けようとすると同じ方向に動いて妨害してくる。

 本来、心獣は主人の近くから離れないものだ。

 魔力が意思を持って獣の姿で生きているというのは不思議だが、確かに自我はある。

(何か好奇心を刺激されることでもあったのかしら?)

 心獣は、主人である魔法師の性格が反映されることも一部あると聞く。次兄の心獣は菓子の甘い香りに反応した。

 エレスティアは、今はお菓子など持っていない。甘いものを探しているという感じでもないので、ただの好奇心なのかもしれない。

「……えーと、あなたのご主人様はどこ? 散歩している、とすると主人はきっと近くにいるのよね。なら、そちらにお行きなさい、私も大切な用事が――」

 その時、心獣が、大きな頭をすりっとエレスティアの頬にこすりつけてきた。

 彼女はびっくりした。噛まれるのではないかと身構えたが、柔らかく上質な羽毛のような暖かさにすりすりとされ続け、緊張感も解け笑みを浮かべた。

「まぁ、あなた心獣なのに懐っこいのね」

 危害を加えるつもりはいっさいないみたいだ。

 しかし父や兄の心獣も触らせはしなかったので、この状況に戸惑ったが、念のためエレスティアはその心獣が満足して離れてくれるのを待った。

 その時初めて、エレスティアは周りのざわめきが聞こえてきた。

「お、おい、他人の心獣なのに、噛まれていない貴族令嬢がいるぞ」

「というかあれって、皇帝の心獣だろ……?」

(――え?)

 とんでもない単語が聞こえた。

 その時だった。通行途中につられでもしたみたいに足を止め、その様子を見ていた騎士や軍人魔法師や貴族たちが、はっと緊張し、道を開けるようにして廊下の端に寄った。

 エレスティアは、人が割れた先に、その心獣と同じ〝黄金〟の髪を見て目を見開いた。

 ざわめきと共に現れたのは、とても美しい男だった。

(……皇帝、陛下)

 エレスティアは、その貫禄と気迫にごくりと息をのむ。その人の顔はエレスティアも八年前の皇位を受けた式典で見ていた。

 このエンブリアナ皇国の皇帝、ジルヴェスト・ガイザー。

 両親が急逝したことにより、十代後半で即位した最年少の皇帝になる。輝く黄金の髪、深い青の瞳。凛々しい精悍な顔立ちをしており、即位前から国軍の最高指揮官としても知られている軍人王だ。

 それと同時に、エレスティアも知るほど『冷酷な皇帝』という呼び名は有名だった。

 そんな彼がどんどん近づいてきて、とうとう彼女の目の前で足を止めてしまった。

「――私の心獣が申し訳ない。普段は離れることがないんだが」

 ジルヴェストの顔がゆっくりとしかめられていく。

 すっかり固まってしまっていたエレスティアは、慌てて深く頭を下げた。

「い、いえっ、こちらこそ大変申し訳ございませんでしたっ」

 最高位の経緯を示す淑女の礼をとったが、ドレスのスカートをつまむ指が震えた。

 十代で皇帝となり『ガイザー』という新しい称号を得た。彼が国民の期待に応えると約束してから八年、見事な采配でこの大国をまとめ上げた。

 それを可能にしたのも、軍人時代から変わらない仕事っぷりと厳粛な姿勢にあった。

(お父様も、ご即位の際には緊張しておられたわ)

 皇子から皇帝となった彼は、父王よりも厳しく臣下たちの仕事をチェックした。階級に甘んじて不正利益を得ることも、断じて許さなかった。

「これは私の落ち度だ。顔を上げてくれ」

 頭の上から降ってきたよく通る男の声に、どきっとする。

「……お許しいただき光栄に存じます」

 恐る恐る顔を上げると、ジルヴェストは心獣を自分の後ろへと下がらせていた。彼の深い青色の目は、エレスティアを真っすぐ見つめている。

「パーティー会場に向かおうとしていたのだ。恐らく私の心獣は、それをくみ取って廊下を確認していたのかもしれない」

 現実感が追いつかなくてじっと見つめてしまっていたら、ジルヴェストが小さく咳払いした。

「ところで、君も出席者なのか? 見ない顔だ」

「えっ。あ、わ、わたくしは――」

 彼が雑談してくれるとは思っていなくて、今の状況もエレスティアにとっては緊急事態だった。

 皇帝と話をしている。直接言葉を交わしてしまっている。そのことで緊張して、先程の言葉への返事もつい忘れてしまっていた。

(ど、どうしよう、なんて答えたら)

 そうパニック気味に思った時だった。

「皇帝陛下! そちらにいらっしゃいましたかっ」

 かなり年配の男の声が響き渡って、エレスティアはびくっとした。

 彼は、会場に向かうところだと言っていた。何か、皇帝の祝い事に関わるパーティーだったのかもしれない。

(ああっ、お父様の話をきちんと聞いていればよかったっ)

 下手な言葉で礼を欠いてしまっては大変だ。そして、邪魔になってもいけない。

「そ、それでは、わたくしはここで失礼いたします」

 エレスティアはすばやく頭を下げると、呼びに来たらしい側近と入れ替わるようにして小走りでその場をあとにした。


 ◆◆◆


 ――ジルヴェストとエレスティアのやり取りを、隠し通路の陰からじっと見ていた者たちがいた。

「見たかっ? 皇帝の心獣が、自ら頭をすり寄せたぞ!」

 会場へ向かったジルヴェストの姿が見えなくなったところで、そう興奮の声を上げたのは、前皇帝時代からの側近の一人だ。

「ああ、バリウス様のおっしゃった通りだったな」

「これは驚いた、彼女ならば相手がどんな心獣でも、相性などは関係ないのか。いや、魔法呪文を唱えたあと、あんなにも近くで見つめ合っていたから、そもそも陛下の心獣との相性もよかったのかもしれぬ」

「とにもかくにもっ、心獣が受け入れるかどうかの問題は確かに彼女にはナシだった!」

「その通りだ! 最強の大隊長、オヴェール公爵の娘だ。オヴェール公爵家といえば、今この国内で最も味方につけたい強力な貴族ともいえる」

「バリウス殿には感謝しかないな。うむ、これは早急に話し合おうではないかっ」

 彼らは、そそくさとパーティー会場と反対方向へ移動を始めた。


 ◆◆◆


 ついその場を逃げ出してしまったエレスティアは、バリウス公爵の執務室を通り過ぎ、次の角を曲がったところで、ようやく走るのをやめた。

「はぁっ……お、驚いてしまったわ。あのお方が、皇帝……」

 緊張で、どっどっとうるさく鳴り続けている胸に手をあてる。

 先程見た美しいジルヴェストを思い返した。少し機嫌が悪くなったのだろうか、顔がほんのわずかにしかめられただけで、震え上がるほど威圧感があった。イメージ通り冷酷そのものだった。

(彼の心獣が、あんなに懐っこいのは意外だったけれど……)

 とんでもない偶然もあったものだ。

 恐ろしさに震えそうになる足をどうにか動かして、目的の執務室を目指す。

 訪ねる約束をしていたバリウス公爵は、エレスティアが到着した時、忙しそうに書面にペンを走らせていた。

「おや、何かあったのかね?」

 彼は入室を許可するなり外から隠れでもするようにさっと入ってきたエレスティアを、どこか面白がって眺めた。

「じ、実は、そ、そこでっ、皇帝陛下のお顔を見てしまったのです……!」

「ほぉ? ははは、まぁ落ち着きなさい」

 バリウス公爵はエレスティアの父親と同世代とはいえ、低くてハンサムな声をしている。

 撫でつけられた焦げ茶色の髪も似合い、優雅さを漂わせつつもユーモアに溢れた、エレスティアの〝素敵なおじさん〟である。

「ここは彼の宮殿なのだから、彼が歩いているのも当然だろう。とくにこのあたりは、宮殿内部の奥にあたるわけだからね」

 さすがはバリウス公爵だ。エレスティアは驚きの余韻が鎮まっていくのを感じた。

「――確かに、その通りですね」

「ふっふっふ、そうだろうとも。ところで、ほら、これが渡したかったもう一冊の本だよ。先月に話して聞かせたら、君が古語を読解しながら読みたいと言っていた聖アブヌストの大陸間抗争の手記だ」

「まぁっ、さすがはバリウス様ですわ!」

 彼が持ってひらひらと見せてきた本に、エレスティアは慌てて走り寄ると、飛びつくようにぱっと両手を伸ばして受け取る。

「素敵ですわ! ありがとうございますっ」

「ふふふ、そういう愛らしいところは、昔から変わらないね」

「……えぇと、お兄様たちには今の仕草は内緒でお願いいたしますわ」

「どうして? 怒らないと思うけれどね」

「淑女としては、いけない行動ですわ。お母様みたいな素敵な女性にならなくては」

 そう答えながらも、エレスティアは満足げなため息を漏らして愛おしげに本を胸に抱いた。

 バリウス公爵が「くくくっ」と肩を揺らす。

「なるほど、母君か。我らのマドンナは確かに皇国一の美しい女性だったよ。ところで、皇帝の第一印象はどうだったかな?」

「え? 私が顔を合わせるだけでも恐れ多いお方です、印象なんて申し上げられません」

「ふうむ、そうかな? 君はオヴェール公爵家の直系の娘だ。身分としては、皇帝と言葉だって交わせる立場にある」

「私は普通の公爵令嬢ですわ」

 エレスティアは困ったように微笑んだ。

 両親や、優秀な兄たちとは違う。国に貢献できる身分でもない。

(唯一貢献できることがあるとすれば、オヴェール公爵家のために、できるだけいいところに嫁ぐことくらい……)

 魔法師一族の女性は、強い魔法師を産めるとして人気があった。

 ただ、魔力が弱いエレスティアは、その可能性すら期待されず、見放されてしまっている。

 それでも、公爵家の血筋とあって彼女を欲しがる貴族が出てきてくれるはず。その小さな希望が彼女を惨めな気持ちにさせないでくれていた。

「皇帝は、噂されているより美形ではなかったのかな?」

「いえいえっ、ものすごく驚くほどの美形ではございましたがっ、お噂通りの怖そうなお方だと――あ」

 エレスティアは、頬杖をついてにやにやしているバリウス公爵にハタと気づく。

「……今の『印象』の件は、どうかお忘れになってくださいませ。皇帝陛下と対面した際に、驚きで危うく公爵家の恥となるところでした。以降は気をつけます」

「それはよかった」

 バリウス公爵がもたれていた椅子から背を起こし、いい笑顔でぱんっと手を叩いた。

「今回のことで君が私のところに訪れないと言い出したら、どうしようかと思ったよ」

「そんなことしませんっ。バリウス様は、父のご友人で、私が尊敬しているおじ様で、本について語り合える大切な仲間です!」

「嬉(うれ)しいね。それから、心獣のことは悪かったよ」

 唐突に彼の口から『心獣』と出て、エレスティアはきょとんとした。

 すると彼が「おっと」と言って、ベルを鳴らす。まるで待ち構えていたように騎士が二人入室してきた。

「帰りは彼らが送ってくれる。すまないね、このあと行かなければならないところもあってね。君の父と兄たちによろしくと伝えておいてくれると助かるよ」

「はい、お任せください」

 やはりバリウス公爵は忙しかったのだ。

(それなのに、いち早くご本をくださったなんて嬉しい――)

 読み終わったら、しっかり感想を伝えようとエレスティアは思った。


 ◆◆◆


 エレスティアが執務室の前の廊下を歩き去っただろうタイミングで、バリウス公爵は何食わぬ顔で早速動きだした。

 彼が向かったのは、ジルヴェストの側近たちのもとだ。

 護衛が立つ扉をノックして入室すると、皇室の重鎮たちが勢揃いしていた。

「おぉっ、バリウス殿! お待ちしておりました」

「これはこれは、イリバレット大臣まで」

「あなた様のご提案と聞き、これは馳せ参じねばと思いましてな」

 パーティーに出席していた面々まで招集されている。バリウス公爵が手を差し出すと、大臣が喜々として両手で握り返す。

(ふっふっふ、よほど好感触だったらしい)

 バリウス公爵はにんまりと笑ったが、そうしていてもダンディで爽やかな印象は薄れず、人のいい紳士そのものだった。

 貴族や庶民から、バリウス公爵は大勢から信頼されていた。

 有能かつ実に優秀で、交渉力にも長けているため、冷戦が続いていた国と和解し、さらに貿易の利益も上げた。現在もあらゆる方面において発言力があるのは、過去の多大な実績だけでなく、今もなお、政務に貢献し続けているからである。

『我が人生すべてを国にそそぎ、領民や国民のことを考えていたいのだ』

 結婚せず身を尽くす彼の言葉は、人々を感動させた。

 とはいえ、友人たちは仕事は彼の趣味だと知っている。

 どんなことでも面白がる性格で、困った問題が起きた時ですら楽しんでしまう。やられたら〝二倍にして返す〟努力さえも愉快だと断言する男、それがバリウス公爵だった。

 彼は、前皇位が大変頼りにしていたアドバイザーだ。ジルヴェルトが王太子教育を始める前から教育係長として任命され、現在、皇帝がジルヴェストへ代替わりしても引き続きアドバイザーの役目を担っている。

 そして前皇帝より戦闘面でも政治面でも優れていると言われている現在の皇帝が、いまだ何を考えているのか唯一推測できない有能すぎる男だった。

「それで、皇帝陛下の心獣との様子はどうだったかね?」

 うまく事を運んだ。

 それは、バリウス公爵がジルヴェストを幼少から見ていたからできたことだった。

 心獣の行動まで計算したうえで、彼が出席するパーティーが開催される今日を待った。友人のドーランに知られたら殴られそうなので、しばらく回避だ。

 思いついた今回の計画については、バラす予定はちゃんと入れてある。

 ドーランと久々に魔法で殴り合うのも楽しみだ。

 バリウス公爵は今回、まんまとエレスティアを皇帝の心獣に会わせた。それから皇帝ジルヴェストにも会わせることにも成功したのだ。

「えぇ、ええバリウス様がおっしゃった通りでした! 彼女は素晴らしいです、最弱の魔力なんてとんでもない。心獣に効くあの魔法呪文は、さすがオヴェール家の人間と評価できる、稀有で素晴らしい魔法ですよ!」

 それについては現場に居合わせた全員の、意見が一致しているようだ。

 バリウス公爵は、そこにも満足した。

 エレスティアの評価が低いことは、彼は常々遺憾に思ってもいた。彼女はもっと評価されるべき令嬢だ。

 昔から姪のように愛でてきたので、贔屓の目もまぁまぁあるが、それを抜きにしてもエレスティアは素晴らしい女性だった。

 彼女は、妃教育レベルの教養を持ち、あと二割ほど宮殿の専門教科を学べば妃教育も完了する。

 妃教育で待つ必要がないことは、早くジルヴェストに妻を娶(めと)らせたい側近たちには魅力的だった。

 それでいて、心獣の相性うんぬんに関しても、彼女は除外だ。

(さて、ここからが最も肝心なところだ)

 バリウス公爵は、聞きたくてたまらなかったとは顔に出すまいと思って、にーっこりと笑って彼らに尋ねた。

「皇帝陛下の反応は?」

「あ、そういえば珍しくお声をかけていらっしゃいましたな」

「ほぉっ」

 バリウス公爵の目が光る。ずいっと顔を寄せられた男たちが「ひゃ、精悍で顔がイイ!」「無駄にイケオジ」「いい香りがする」などなど混乱しつつ、言う。

「た、たしか、心獣が驚かしてしまったことを皇帝陛下は謝っておられましたっ」

「それから話題を続ける際には、咳払いされて――」

「咳払い! あの皇帝陛下が!」

 途端、室内にヴァッハハハと、上品とは言えない笑い声が響いた。

 それでも許せるくらい、声がいい。言葉の羅列に変換すると下品なのに、ひーひー言って大爆笑しているバリウス公爵のことを不思議とみんな許せるのだ。

「……相変わらずよくわからないお人だなぁ」

「我らより先を見すぎているせいか、時々、彼の笑いのツボがわからぬ」

「まぁ、必要な内容なら教えてくださるだろう」

 彼はジルヴェストの幼少時代から、よき助言者としてそばにいた。

 側近たちは各々納得すると次の行動に移るべく、パーティーへと出席し、密かに要人メンバーへ声をかけていったのだった。


 ◆◆◆


 パーティーの翌日、今月に入ってから十日間は、いつもと変わらず穏やかに過ぎていった。

 エレスティアがその間ずっと引きこもって熱中していたのは、バリウス公爵からいただいた古本である。

 彼女は古語をほぼ読み解ける。知らない単語が出てきたら辞書を引っ張り出し、新しい文法の発見にも楽しみを見出し、毎日が充実していた。

「お嬢様の勉学の向上心は素晴らしいですわねぇ」

「読書は趣味よ」

「無自覚な勤勉家ですわ。オーリヒ語ももう習得を?」

 侍女が、棚に戻されている外国語の教材に気づいて、目をまたたかせる。

「翻訳版が出されていない『ラルーツ四世の哲学』、素晴らしい内容だったわ。お兄様が国境での合同演習の際にもらったものを譲ってくださったから、早速読んでみたのだけれど、文法的には母国語のラシール語と共通するものが多くて、とても面白かったわ」

「……そう、ですか」

 何がなんやらという顔をして、侍女たちはそそくさと仕事に戻った。

 そんなエレスティアは、今、バリウス公爵からもらった貴重な二冊の古本に夢中だ。解読しながら読み進めていくのに彼女が一週間以上もかかる本も、なかなかお目にかかれない。

「はぁっ、なんて素敵なのっ」

 一冊目の三割まで堪能したところで、胸に抱えてうっとりとする。

 侍女たちは優しい顔で苦笑した。

「今月いっぱいは続きそうですわね」

「ひとまず、お食事は忘れていただかないようにがんばりましょう」

 そんな日々が、秋が深まる月明けまであたり前のように続いていくのだろう――とエレスティアだって思っていた。

 五日後。一冊目の本をちょうど半分まで読み進めたところだった。

 兄たちもまだ師団長として従事している時間だというのに、ドーランが強面をさらに厳しくして突然帰宅した。

 屋敷の者たちは驚いたし、執事は何か察したようにすぐ彼の短い指示に応じた。

 二階の私室にいたエレスティアは、急ぎ呼ばれて応接間に足を運んだ。

「お父様? 部隊の件で何かあったのですか?」

 ドーランが、大隊長のマントも取っていないことを不思議に思った。

 彼はすぐ言葉を発さなかった。ためらうように彼女を見つめてきた。彼のそばに控えている執事も使用人たちも、つらそうな顔でエレスティアに注目している。

 それに気づいて彼女は動揺した。

「いったい何が――」

「皇帝陛下の第一側室として、お前の名があがった」

 エレスティアは、心臓が止まるかと思った。

「ま、まさか」

「宮殿がそれを決定した。私たちの方で、その件について話をまとめた皇帝陛下の側近たちには交渉していたのだが、本日正式に我が家に通達があり、後宮入りの婚礼の日が決まった」

 その知らせを聞いて、エレスティアは愕然とした。

 急なことで頭が追いつかない。

 つまり政略結婚の相手として、冷酷な皇帝に嫁がされることが決まったのだ。

 後宮入りとは、妻の証として宮殿の主に純潔を捧げることである。

「そ、それは……ゆくゆくの皇妃のご指名で……?」

「いや、今回はあくまで第一側室として後宮へ召し上げられることになった」

 皇妃ではなく、あくまで側室――それを不思議に思いつつも、今はそんなことなんてどうでもよくて。

(私が? 皇帝の一番目の側室に?)

 引きこもりである彼女に、皇帝の側室なんて大役は無理だ。

 エレスティアは、とんでもない決定に震えた。今にも倒れそうだった。

「そんな……どうして、私に」

「魔法師の筆頭に立つ我が公爵家の娘、それでいて、お前なら皇帝の心獣も平気なので、すぐにでも、と」

「あっ」

 エレスティアは先日、皇帝の心獣に出くわしたことを思い出した。

 あれが、第一側室に選ばれるきっかけになってしまったのか。

 ドーランの話によると、今週末に、エレスティアは嫁入り道具を持って宮殿へと住居を移すことになる。

 通常、皇帝への嫁入りは心獣への心構えなどの教えを受けてから、徐々に心獣に慣らしていって、最後に後宮に上がるのが習わしだという。

 現在、二十八歳の皇帝ジルヴェスト・ガイザーは、両親が不慮の事故で亡くなって十九歳での急な即位だった。

 それから八年、彼は側室さえ迎えておらず、後宮は使われないままになっている。

 側近たちとしては、跡取りを思えばもう待っていられないと考えたのだろう。

(そして心獣に関してまったく問題にならない私を指名した――あり得るわ。けれど……)

 現在、皇妃の席も同じく空のままだ。

 第一側室が後宮入りの儀式で子を宿しでもしたら、他に側室がいないことからも、そして側近たちの思惑からも皇妃へと押し上げられるだろう。

「……わ、私に皇妃なんて無理です」

 宮殿に上がれる貴族の女性は、魔力が強いか魔法能力に長けた者たちだ。

 まず、エレスティアが入っていい世界ではない。

 倒れそうになるエレスティアに気づき、ドーランが慌てて立ち上がり、彼女のいるソファに座り直して体を支えた。

「私としても、魔法の強さばかりを重視している場所にお前を嫁がせたくはない。しかし、社交経験の不足を訴えても相手にもされなかったのだ」

「お、お兄様たちは」

「知っている。せめてとの思いで、後宮の警備についての会議に加わって、お前に害意がない者たちを厳選してくれている。そのあとでここへ戻るだろう」

 宮殿が決定したことだ。覆すことなどできない。

 兄たちはそれをわかって、師団長の仕事をいったん止めて動いてくれているのだ。

「エレスティアは、妃にはなりたくないのだな?」

「なりたくないです、妃は、嫌……!」

 なぜか、胸と同時に頭の奥がずぐんっと痛んだ。

(ああ、どうしてこんなに必死に訴えているのだろう)

 エレスティアは、自分でも不思議だった。決まったのは第一側室だというのに、妃という言葉に、過剰反応してしまっている。

 きっと、パニックになっているせいだ。

 肩を抱いて支えているドーランが、そんなエレスティアを痛ましそうに見つめて目を細めた。

「わかった。それなら結婚後、どうにかお前を救い出そう」

「結婚後……?」

 そんなことが可能なのかと、エレスティアはドーランを見上げる。

「第一側室だ。心獣の件が問題なかったために、お前が真っ先に指名されただけだろう。このあと第二、第三の花嫁たちが後宮に入るはず。彼女たちが皇妃にふさわしい女性であれば、誰もお前を引き留めないだろう。子ができないよう、避妊薬も持たせる」

 避妊薬と聞いた途端に、頭の奥がずきんっと痛んだ。

(ああ、不安で苦しい……)

 きっとそのせいだとエレスティアは思った。

 相手は秀でた魔力を持って生まれた皇帝だ。果たして、魔法の避妊薬は効くのか。

「急な話で混乱しているのはわかる。だが、これがお前を救える一番の――エレスティア?」

「うぅっ、頭が、いた……っ」

「エレスティア!」

 ドーランが何か言っている。誰かと叫んでいる。

 ――王に愛されない妃になんて、なりたくない。

 エレスティアの胸の中で、心が張り裂けんばかりの思いが溢れた。頭も割れそうなくらい痛くて、彼女は崩れ落ちる。

 直後、ひどい頭の痛みと共に、頭の中で悲痛な自分の叫び声を聞いた。

『お願いっ、避妊薬をちょうだい! 子が生まれたら、あまりにもかわいそうすぎるわ……お願い、わたくしを救うと思って、どうか……!』

(ああ、そうだったんだわ)

 エレスティアは痛みの中で悟った。

(私……前世のどこかの大陸でも〝妃〟だったことがあるんだわ)

 結婚を知らされた時から感じていた胸の痛み、その理由を理解したエレスティアは、強烈な頭痛で意識を失った。






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