水縹のメロディ

1-2

「あら、珍しいわね、ピアノなんて」

 仕事が休みの日曜日、夏紀は数ヶ月ぶりにピアノを弾いた。
 ピアノは子供の頃から習っていて学校でも何度か披露したことがある。けれど先生が嫌で辞めてしまって、弾くこと自体が少なくなって、就職した今では気が向いたときにしか弾かなくなった。

「うん。なんとなく……ダメだー、指が回らない」
「そりゃそうよ。そういえばお向かいさん、ピアノの教室なんだって」

 でも今さら習わないわよねぇ、なんて言いながら、明美はリビングで父親と話をしていた。向かいがピアノ教室というのは、引越しの挨拶に行ったときに家主に聞いたらしい。

「へぇ……」

 だったらやっぱり、オカリナを吹いていたのは女性かな、と夏紀は思った。
 ピアノの先生が気分転換にオカリナを吹いてみる。そんなときに関わりのある青年たちがやって来る。男性の先生がいないとは言いきれないけれど、少なくとも夏紀はピアノの先生は女性しか出会ったことがない。

「旦那さんが先生なんだって」

 おっと、そうきたか。

 自分の運指の鈍さが嫌になり、夏紀はピアノをやめて両親の会話に混じった。

「今度の日曜日、みんなでドライブに行かないか?」
 提案したのは父親だった。
「良いわねぇ。どこに行くの?」
 母親は嬉しそうに賛成したけれど。
「来週ダメ、予定あるから。二人で行ってきたら?」

 夏紀は恋人とデートの予定が入っていたので、夫婦だけでのドライブを勧めた。父親は夏紀も一緒に連れて行きたかった様子だが、「デートよデート、夏紀の人生がかかってるんだから」という母親の妙な説得にあっさり納得していた。

 人生がかかっている、という言葉に、夏紀は少しため息をついた。
 夏紀には学生時代から付き合っている恋人がいる。それは間違いない。
 けれど最近はすれ違いが多くなって、喧嘩だって増えた。
 喧嘩するほど仲がいい、とは言うけれど、それとは違う気がしていた。嫌いになったわけではないし、好きか嫌いかと聞かれれば好きだと即答する。

(でも……なんだろう……)

 相手は一つ年上で、社会に出てからも素敵に見えた。
 外見は良いし、給料も良い。頭も良いし、仕事もできる。
 誰にでも紹介できる自慢の恋人で、友人に羨ましがられたことだってある。

 ただひとつ問題なのは、結婚の話をほのめかすと、思いっきり嫌がられること。

(嫌がる男の人は多いっていうけど……)

 彼の嫌がり方が、あまりにひどい。
 さやかに相談したときも、「別れた方がいいよ! 男なんていっぱいいるよ!」という返事が返ってきた。
 何でもかんでも自分都合で、人の気なんて気にしない。
 会う場所だって自分都合で、夏紀の方がいつも遠出だ。

(逆だと思うんだけどな……)

 せっかく綺麗な街の可愛い家に引っ越してきたのに、夏紀は引っ越す前の落ち込んだ状態から抜け出すことが出来なかった。来週の日曜日はデート、だけど複雑な気持ちだった。

 悩んだって仕方ない、決めること決めないと、と恋人にメールしようとしたとき、向かいの家からオカリナの音色が聞こえた。

(やっぱり綺麗だなぁ。嫌なことも忘れるよ)

 まるでそれは薬のように、夏紀の心に効いた。
 人影が見えなかったので、夏紀は窓を開けてみた。もちろん向かいの家を覗きこみはせず、窓に近づくこともせず、ただ風と一緒に音を部屋に入れた。

(誰が吹いてるんだろう……先生かな。生徒さん? あ、こないだの男の人たち……生徒なのかな。パーティーしてたとか? 男の先生だったら、男の子も習いやすい?)

 そんなことを考えながら、夏紀は【来週どこで待ち合わせする? 美味しいもの食べに行きたいな】というメールを恋人に送信した。

 柔らかな春のメロディが、夏紀の頬を撫でた。
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