水縹のメロディ

4-4

 ピアノを弾く者にとって、一番辛い季節は冬だ。手がかじかんで固まってしまい、指が回らない。
 ヒーターでじゅうぶん温めて、握って開いて、を何度も繰り返す。

「ナツ……良い?」

 ハレノヒカフェでピアノの前に座っていた夏紀はこの日、いつも以上になぜか指が動かなかった。弾いていて回らない──というより、本当に、文字通り動かなかった。

 最近ハルはカフェでの演奏にオカリナを使うようになった。夏紀がピアノを弾く時に必ず彼がいるわけではないし、もちろん夏紀のピアノ譜にもオカリナのメロディは記載されていない。
 本当にハルのオリジナルで奏でられるメロディは聴く度に違っていて、夏紀はそれを聴くのも、隣でピアノを弾くのも楽しみにしていた。

 けれど、この日は椅子に座ったまま、夏紀は演奏を始めることができなかった。鍵盤の上には手を置いていたけれど、それも膝の上に降ろしてしまった。

「ダメだ……弾けない……」
「もう良いから、下がってて」

 夏紀はピアノから離れると、そのまま店の奥に入っていった。休憩室に入って間もなく、ピアノのメロディが聞こえてきた。ハルが奏でるメロディは、夏紀よりも当然、柔らかい音がした。

(ダメだ……気にし過ぎて緊張してる……)

 夏紀がピアノを弾けなかったのは、寒さのせいではない。
 ハルのことが気になって、気にし過ぎて、音を出すことができなかった。

(弾いて間違えるのと……どっちが良かったのかな……)

 気がつくと夏紀は、ソファで横になっていた。ピアノを弾けずに下がってから、寝てしまっていたらしい。

(いま何時だろう……それにしても、妙に静かだな……)

 夏紀は少し伸びをしてから身体を起こした。

「おはよ」
「おは──、ハルさんっ、え? ……みんなは?」

 夏紀が寝ていたソファの横の椅子に、ハルは座っていた。自分が置かれた状況がわからないまま、夏紀は辺りを見回した。休憩室に入って来る前、店内には客がたくさんいた。さやかもいた。恵子や徹二も、もちろんいたはずだ。

「帰ったよ。雨が降ってきたから」
「雨……?」

 窓の外は少し暗くなっていて、水滴が付いているのが見えた。
 ハレノヒカフェは晴れの日の営業で、途中から雨が降ってきた場合もそのタイミングで閉店する。

「すみません、私のせいで……」

 ハルがピアノを弾くことになってしまったこと。閉店したのに帰れずに、時間を無駄にしてしまったこと。

「ナツは悪くないよ。どっちかっていうと、俺の責任」

 言ってからハルは立ち上がり、夏紀の隣に座った。

「ここでピアノ弾いてって頼んだのも、ナツに難しいのを練習させたのも、……ややこしいこと言って混乱させたのも、全部俺。ごめんね」

 ハルに真顔で見つめられ、夏紀は視線を逸らすことができなかった。
 ごめんね──そんな言葉をハルが言うなんて、恵子や徹二が聞いたら何て言うだろうか。彼の両親は、こんな彼の心を知っているのだろうか。

「ナツは、運命の出会いって、あると思う?」
「運命……?」
「俺、あったんだ。十年以上前」

 ハルは夏紀の隣から先ほど座っていた椅子に戻った。ハルが真剣な顔をするので、夏紀も姿勢を正した。

「たまたま聴きに行ったピアノの発表会で、俺に近い演奏をする子がいて、すごい気になって。どうしても、その子を自分で教えたくなったんだ」
「へぇ……。十年以上前って……」
「俺が大学出てすぐの頃。──でも、その子が通ってた教室を訪ねたときには、もう辞めてたんだ」

 昔を懐かしむようにハルは遠くを見た。
 会えなかったことが本当に悲しかったのだろうか、表情は少し暗い気がした。

「もちろん、連絡先を教えてくれるはずもないし。何をどう調べても、出てくるわけないし。仕方ないから、よそで雇ってもらったり、ピアノに全然関係ないバイトしたり、あちこちふらふらしたよ」

「ここをオープンするようになったのは、そのあとですか?」
「まぁ、そうかな。今さらサラリーマンになるのも嫌だったし。似合わないでしょ?」

 ハルは笑いながら夏紀のほうを見た。
 デスクワークをしているハルを想像するのは難しいけれど、スーツは絶対に似合う。出来る男に見える。同僚や後輩からも、慕われていたに違いない。

「そんなときに──見つけたんだ。俺がピアノを教えたかった子を」
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