Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第23話 近くて遠い ─side 朋之─

 最初は単なる中学二年のクラスメイトだった。名前の順の席が離れていたので話すこともなく、視界の隅に映る程度だった。塾で一緒だった佐方彩加の友人だったようで、佐方を通して少しずつ知っていった。

 それでも特に気になるわけではなく、クラスメイト以上にはならなかった。同じ班になったとき、佐方と二人で緊張しているように見えたが、俺は特に何も変わらなかった。

 気になりだしたのは、美咲がピアノを弾くのを見てからだ。
 音楽が好きなのだろうとは最初の頃から思っていたが、ピアノを弾くと表情が一変した。小学校の頃や一年のときに弾いているクラスメイトを見たが、その誰よりも真剣にピアノに向き合っていた。美咲は手元より楽譜を見ていることが多かったが、クラスの奴が「顔、変わってるー」とか言ってからあまり前を向かなくなった。くそぅ。

 気になりだすと、後戻りはできなかった。普段は何を考えているのかわからない、むしろ何も考えていなさそうな態度だったのに、ピアノを弾いているときだけは誰よりも輝いて見えた。綺麗とか可愛いとかではなかったが、目が離せなかった。そんなうちにいつの間にか、美咲のことを好きになっていた。

 だから三年でクラスが離れたときは悲しかったが、塾で一緒だったし、美咲の伴奏で歌いたくて有志合唱に入った。伴奏をするのは美咲自身も予定していなかったらしいが、急に篠山に指名されたのを見て俺はほっとしていた。美咲は授業でそれを弾いたらしい。

 俺と同じような経緯で美咲を好きになった奴は他にもいたらしい。そいつは何度か遠回しに接触を試みたが残念ながら気付いてもらえなかったと裕人から聞いた。俺は学年の中では上位の男前だと自信はあったし美咲にも好かれているだろうと思っていたが、俺は最後まで何も言えなかった。美咲は俺と同じ高校を受験していたが駄目だったようで、卒業と同時に遠い存在になった。

 Harmonieに入ったのは、どこかで美咲を探していたからだ。残念ながら美咲はいなかったが、俺は辞めなかった。美咲は大人になってから篠山と再会し、中学の卒業生が母体になったえいこんに所属していたらしい。美咲が小学生のときに篠山と関わっていたことは最近になってから聞いた。

 Harmonieのピアノ担当が辞めると聞いたとき、美咲のことがすぐに思い浮かんだ。しかし美咲の連絡先は知らずSNSでも探せていなかったので、どうすることもできなかった。

 同窓会で再会したのはラッキーだったと思う。話をしてみるとピアノはいまも続けていると言うので、思いきって誘った。残念ながら美咲は既に結婚していたが、俺もそうだったので近くに居られるだけで十分だった。


「そしたら一回、ピアノと合わせてみよか。……あれ? 小山さん、どこ行った?」

 一月下旬の練習日、いつもの公民館。美咲にお願いしようとしたが、ピアノの前に彼女はいなかった。荷物だけがポツンと残されていた。

「さっき、出ていってました」
 どこへ行ったのかと心配していると、ゆっくりドアが開いて美咲が戻ってきた。全員に注目されて、気まずそうにしていた。

「……どうしたん? 顔色悪くないか?」
「大丈夫……。ごめん、ピアノやな……」

 美咲が座るのを待って、井庭は指揮を始めた。一通り最後までやってみたが美咲のピアノにいつもの表現力はなかった。楽譜通りに弾けてはいたが、心地よくなかった。

「今日は調子悪い?」
 パートごとの練習に戻ってから、俺は美咲の様子を見に行った。
「何やろ? 朝からなんかおかしくて……」
 美咲は楽譜を捲りながら笑おうとしていたが、気分が悪くなったようでまた部屋を出ていった。

「山口君、何か聞いてる?」
 井庭も美咲の様子が気になっていたらしい。
「いえ、聞いてないです。朝から調子悪いみたいで……」
「あれやったら、家まで送ったって。こっちはやっとくから」

 井庭に頼まれて様子を見に行くと、美咲はゆっくり歩いて戻ってきていた。明らかに顔色が悪かったが、彼女は練習を続けると言った。

「だって、みんな頑張ってるのに」
「いや、良いから、今日は休んどけ。病院は休みやからな……」
「……わかった」

 意外にも素直に従ってくれたので、俺は練習を抜けて美咲をマンションまで送ることにした。とりあえず井庭に声をかけて、美咲と一緒に公民館を出た。

 美咲は横になりたいと言うので、後部座席に座ってもらった。横にはなっていたが起きていたので、少しだけ話した。
「何か、心当たりある?」
「……明日、病院行ってみる」

 詳しいことは聞かなかった。聞いたところで俺には何も出来ないし、日曜で旦那が休みだろうから託すつもりだった。

 マンションに到着して、また美咲は辛そうにしていたので玄関まで付き添った。美咲がドアを開けると旦那が出てきたので、俺は挨拶した。怪しまれるのは嫌だったので、簡単に自己紹介もした。それから体調が悪そうなので明日にでも病院に、と言うと、旦那は丁寧にお礼をしてくれた。

「ごめん、ちょっと横になる……山口君、ありがとう」
 美咲は奥へ入って行ったので、俺もそのまま練習に戻った。

 もしかすると彼女は──、と一つの可能性が浮かんだが、美咲から連絡が来るまでそれは誰にも言わないことにした。井庭やHarmonieのメンバーはもちろん、裕人にもだ。勘で話しても仕方ないし、美咲もそれは望んでいないだろう。

 翌日、昼休憩のときにスマホを見ると彼女からLINEが届いていた。
 俺の勘は正解だったようで、裕人と井庭には自分で伝えると言っていた。
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