Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第22話 答え合わせ

「──さん、小山さん」
「は、はい」
「これ、次のコンサートでやるやつ……そんな難しくないはずやで」

 いつものように井庭は美咲に楽譜をいくつか持ってきた。一月中旬の日曜日、新年度最初のHarmonieの練習だ。いつも練習していた公民館は事情で使えなくなったようで、珍しく江井市の公民館を使うことになった。美咲が学生時代に所属していた『えいこん』の練習場所だ。

「どうしたん? 古巣、懐かしい?」
「まぁ……はい……」

 確かに懐かしさはあったけれど、美咲が気にしているのはそんなことではなかった。新年の挨拶に美咲と航が義母の兄夫婦を訪ねたとき、華子が言っていた噂の話をされた。もちろん美咲は否定したし航も美咲を信じて見方をしてくれたけれど、美咲の印象は悪くなっていた。

 だからなんとなく朋之には会いたくなかったけれど、もちろん彼は練習にやって来た。

「おっす。あれ、きぃ、元気ない?」
「ううん……考え事してた」
「ふぅん……あ、あれ返事来たで。OKやって」

 朋之は荷物を置いてから井庭と話をし、いつものようにメンバーを注目させて連絡を始めた。春に小さいコンサートを予定していること、次の練習も場所が違うこと。それから、Harmonie全体のレベルアップを考えていること。

 正月休みに朋之から美咲にLINEがあって、レベルアップの話は聞いていた。一気に上げるのは難しいので、グループに分けて上げていくらしい。

『どうやって? 合宿とかするん?』
『それは無理やから、えいこんの練習に行かしてもらおうと思ってる』

 まずは希望者から練習に参加してもらい、将来的にはえいこんと並べるくらいの技術をつけたいらしい。

『私は出禁やけどなぁ……』
『そこは、考えるわ。レベル上げて定演しようと思ってるから……きぃはピアノ練習に励んでもらおうかな』

 OKが来たのは、Harmonieのメンバーがえいこんの練習に参加することだ。ただし、えいこんにも都合があるので詳しいことは井庭と篠山が打ち合わせることになった。美咲の参加は一旦保留らしい。

 Harmonieのメンバーの大半は朋之の意見に賛成だったので、休憩時間に詳しく聞いていた。ちなみに新たに練習を始めた曲を、えいこんは夏の定演で歌うらしい。

「もしかしたら、逆に篠山先生が練習見に来るかもやけど」
 美咲がピアノの音を小さくして練習していると朋之が話しかけてきた。
「それにしても出禁って、きぃ、篠山先生と仲良かったのにな」
「うん。中学のときも噂には聞いてたけど、オンとオフが激しいから難しい……私が悪いんやけど」

 出禁解除の申請をしようか、と笑いながら朋之は練習に戻り、美咲もピアノの練習を続けた。いつか再びえいこんのメンバーと会うことはあるのかと考えながら──みんなが練習に行っているのに美咲だけ行かない理由は出禁だから、とはできれば言いたくない。

 練習が終わった帰り、美咲は朋之の車で母校を訪れた。山を上った行き止まりにあるので他には誰もいない。行き止まる前に校門があるので、道から校庭を見下ろす形になる。外壁の塗装はしているけれど、建物自体の形はそのままだ。

「日曜やから入られへんか……。ちょっと見たかったけどな。仕方ない、帰るか」

 来た道をそのまま引き返したけれど、もちろん話題は当時のことになった。あんなことが、こんなことが、と笑ったあとで美咲の友人の話になった。

「きぃ、友達に──佐方彩加っておったやろ」
「いたね。……いま何してるかは知らんけど」
「俺、実は──あいつと一瞬だけ付き合っててな」
「え? ええ? うそぉっ?」

 まさかの発言に動揺を隠せなかった。朋之は、ほんまに一瞬な、とため息混じりに笑う。

「高校入ってすぐの頃、たまたま帰りに駅で一緒になって」
 朋之と彩加の家が同じ方向だったので、二人で歩いていたときに彩加が言い出したらしい。

 その事実よりも、美咲が気になったのは彩加がそれを黙っていたことだ。言いたくなかったのかも知れないけれど、彼氏ができた、と一言くらい教えてほしかった。

「きぃの話もしてたで。なんか、同じことするのは嫌になったみたいで……」
「同じこと? あ、そういえばピアノ弾いてたなぁ」
「クラブでバンド始めたって言ってた」
「あ──それ、いまも続いてるんじゃない? SNSに載せてたわ」

 それが美咲とは違う世界で、もう完全に合わないな、と思った。もちろんそれ自体が嫌いなわけではなく、趣味の問題だ。

「俺が合唱始めたのも、きぃのこと思い出して嫌やったみたいで……バンドの奴と仲良くなったからって、すぐに別れた」
 だから本当に付き合っていたのかはわからない、と朋之は振り返る。二人の学校は違ったけれどどちらも進学校なので、遊ぶ時間は少なかったはずだ。

「それに──」

 朋之は言葉を切って、信号で止まるのを待ってから美咲のほうを見た。

「俺、きぃが好きやったから。きぃと付き合いたかった」

 再会してHarmonieに誘われたときから親しくしてきたし、裕人にも過去のことを聞いていたので特に驚かなかった。引っ越しの荷物の中に色褪せた楽譜を見つけたときも、そんな気がしていた。美咲が中学で最後に弾いた、卒業にちなんだ少し悲しい曲だ。

「きぃは? 俺のことどう思ってた?」

 美咲には逃げ場がなかった。裕人からも朋之からも好きだったと言われ、自分だけ何も教えないのは卑怯だと思った。朋之はアクセルを踏んだ。

「好きやったよ。卒業してからも、ずっと」
「……やっと聞けた。やっぱ、そうやったんやな」
 朋之は美咲に聞いておきながら、答えを知っていたのだろうか。

「こないだヒロ君が言ってたわ、直球で聞いたけどはぐらかされた、って」
「ああ……ははは。聞いたんかぁ」
「きぃも、俺のこと知ってたんやろ? ヒロ君がバラしたって白状したわ。はは、よく練習とかに響かんかったよなぁ」

 美咲と朋之は、お互いに片思いだったと知っていた。だから会えば確実に脈が上がっていたはずなのに、歌にも指導にもピアノにも影響は出なかった。

「私……旦那を裏切るつもりはないから」
「わかってるって。俺も怒られたくないし」

 さすがに悪いことはしないと笑いながら、朋之は話をHarmonieのことに変えた。これからも今まで通り、美咲と朋之は趣味仲間として関わっていくつもりだった。
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