Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第29話 嬉しさと悲しさ

 九月の下旬、予定より一週間ほど早くに美咲は無事に女の子を出産した。航にも電話したけれど会議中で出られなかったようで、終わってからすぐに駆けつけてくれた。
「ちっちゃいなぁ。女の子かぁ。可愛いなぁ」
 急ぎの仕事は特になかったようで、その日は時間が許す限り美咲のそばにいた。祖父母は家にいたけれど両親もずっとついていて、義両親もお祝いを持って訪ねてきてくれた。美咲と航のどっちに似ているんだろう、と考えた結果、どちらかといえば美咲に似ているという答えになった。もしかすると、大きくなってから航と似ているところが出てくるかもしれない。

 美咲は歌が好きで、航も歌は上手かったので、子供には美歌(みか)と名付けた。二人の子供なら音痴にはならないだろうし、美咲に似て歌が趣味になってくれても良い。強制はしないけれど、ピアノが出来てくれればこの上なく嬉しい。

 一週間後、航は実家の稲刈りで来れなかったけれど、美咲と美歌は退院して実家に戻った。航は一人で大丈夫なので、育児に慣れるまでは実家で過ごすつもりにしていた。両親は喜んで助けてくれたし、祖父母も一生懸命あやしてくれた。

 学生時代の友人たちに出産を報告すると、わざわざお祝いを送ってきてくれた。
『しばらく無理やけど、また会おう!』
 いつになるかわからない約束をして、友人の先輩ママからアドバイスももらった。子育ては時代と共に変化しているので、彼女たちの言葉が一番リアルに近い。

 華子は週末に帰省していて、祖母と共に遊びに来てくれた。孫同士、祖母同士で話をしながら、親戚四人で盛り上がった。美咲の祖父母は商売をしていたので地元では顔が広かったけれど、華子の家との繋がりには改めて驚く。

「美咲ちゃん、あのな……結婚決まってん」
「ええ! おめでとう! 先輩と?」

 嬉しいその報告に美咲も笑顔になり、改めて裕人を含めて会うことになった。今は詳しいスケジュールは決まっていないけれど、その頃には話せることも増えているはずだ。

 裕人と朋之は仕事の都合がつかなかったので、LINEで報告だけしておいた。

『うるさいから、簡単に言うたで』

 とある週末、Hair Salon HIROに佳樹が来たらしい。予約はしていなかったけれど空いていたので裕人が切ることになり、美咲の話になったらしい。

『どこまで言ったん?』
『同窓会のあと佐藤とトモ君とで飲みに行って、そのあと紀伊がピアノ始めて、紀伊とトモ君はだいたい週末に会ってるみたいやで、って。あとトモ君が離婚した話と』

 美咲と朋之が両片思いだった話には触れなかったらしい。佳樹は美咲とは接触が多かったけれど、朋之とはあまり関わっていないので突っ込んでは来ないはずだ。

『紀伊、いつまで実家におるん?』
『考え中。年内にはいったん戻るけどお正月はこっちで過ごすかも』

 航と義両親にも美歌を見せないといけないけれど、美咲の体調が戻っているとも言いきれないので、できれば静かに実家で寝ていたい。

『ハナちゃんと先輩の話は聞いた?』
『聞いた! 会うのは紀伊が元気になってからって言ってたで』

 それなら会うのは数ヵ月先だろうか。早く話を聞きたくて、いまから質問をリストアップしてしまう。

 朋之からは日曜の午後にビデオ通話の提案があったので、昼食をとってから部屋で待っていた。繋がるとHarmonieのメンバーが整列していて、全員での〝おめでとう〟という言葉のあとに、各パートごとにカメラを回していた。女性たちは〝美歌ちゃん見せて〟と、男性たちは──特に浮かばなかったようで、一人が〝山口君の指導が厳しいです、助けてください〟と言うと、カメラを持っている朋之が、おい、と怒っていた。

 待ってまーす、というメッセージのあとにビデオ通話から電話に切り替わり、美咲は朋之と話した。秋のコンサートはやはりアカペラのみになったようで、全員が美咲の復帰を待っていた。えいこんとの合同練習も進んでいて、来年の春のコンサートでは、メンバーを厳選して混合で出演を予定しているらしい。

「その頃やったら、復帰は無理かもやけど聴きには行けるかな。美歌は置いてくけど……」
「みんなに言っとくわ。でも無理はあかんで。じゃあ、またな」

 電話の向こうで練習が始まったようなので、美咲は電話を切った。混合だったら誰が指揮をするのだろうとか、誰が選ばれるのだろうとか、いろいろ考える。指揮をするのは、井庭だろうか。伴奏はえいこんのピアニストで、朋之は──メンバーに選ばれるはずだ。
 それから一ヶ月ほど経って、美咲は美歌を連れてマンションに戻った。平日で航は仕事に行っていたので、のんびり片付けや料理をしながら帰りを待った。

 天気が良かったので、近くの公園に少しだけ散歩に行った。義実家にも行こうかと思ったけれど、荷物を用意していなかったのと、体調がまだ優れないのでやめた。

 今まではベビーカーを押した母親を見ても、大変だな、としか思わなかったけれど、自分がその立場になると想像以上に大変だった。マンションまでは車で送ってもらったので大丈夫だったけれど、電車に乗るのも時間がかかるだろう。美咲は車の運転免許を持っているけれど航の車しかないし、それは航が通勤に使っている。

「美咲──あのな」
 夕食のあと、美歌が寝付くのを待ってから航は真剣な顔をしていた。
「どうしたん?」
「別に何もないねんで。美歌も無事に生まれたし、美咲には感謝してる。だから敢えてなんやけど──」

 航が考えていたことは、全く想定していなかった。
 嬉しさと悲しさが交互に込み上げて、せめぎ合って、最後は悲しさが勝った。美咲は予定どおり、年末年始を実家で過ごすことになった。
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