Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第36話 正直な気持ち

 美歌はすくすく成長し、はいはいができるようになった。美咲が母親だと認識しているようで、美咲に着いて来ようとしたりする。危ないところに行かないようにガードを立てて常に誰かが見ているけれど、急にバタバタとすり抜けてくるので焦る。

 コンサートの翌日から、やはり美咲には以前のような喪失感が戻ってきた。頑張って育児をしているけれど、美歌を見ているとどうしても航を思い出してしまう。美歌は美咲に似ているけれど、部分的には航にも似ている。

 五月はじめの連休のある日、インターホンが鳴った。窓から外を見ると、朋之の車が見えた。美咲は今日は裕人と遥亮、それから華子に会う予定だった。打ち合わせているうちに美歌と朋之も一緒に会うことになり、美咲と美歌を迎えに来てくれた。

「きぃ、これ着けとくで?」
「あーぷぁー」
「あっ、こら美歌、危ない」

 美咲が玄関に出ようとすると美歌も着いてきた。開いていたガードをすり抜けて、向かう先はチャイルドシートを運ぼうとしていた朋之だ。
「ごめん、お願い……。美歌は待って」

 朋之が車に向かうと、母親がやってきた。
「美咲、大丈夫? まぁ、何かあったらみんなに助けてもらい」
「うん。じゃ、行ってきます」

 美歌と三人で出掛けるときはいつも、朋之がチャイルドシートを付けてくれていた。美咲が車に行くと既に設置されていたので、先に美歌を寝かせる。

「あーあー、ぱー」
 美歌が落ちないようにしっかりベルトをして、美咲は助手席に乗る。
「今日は美歌、ご機嫌やわ。あ──降りたらベビーカー乗せるけど、抱っこするとき気つけてな? またよだれが……」
「良いってそれくらい。そんなええ服ちゃうし」

 仲良く話しているけれど、もちろん美咲と朋之の関係は何も変わっていない。コンサートから一ヶ月ほどの間に何度か会っているけれど、ほとんどHarmonieの話しかしていない。

「山口君はまた実家に来てたん?」
 朋之は最近よく実家に泊まりに来ているらしい。
「うん。あのな……妹が結婚するみたいで」
 朋之に妹がいることは、中学のときに一度だけ聞いた。

「その用事でな。あと……親父と呑みたくなったりして」
「はは。そういう年になったんや」
「そうやなぁ。若いときは全然そんなんなかったけどな。家のこととか、仕事のこととか。妹の話のときに、俺は再婚せんのか、って聞かれたわ……そろそろしたいんやけどな」

 予想していなかった言葉に美咲は何も返せなかった。朋之は美咲の知らないところで再婚相手を探していたのだろうか、それとも、美咲を候補に挙げているのだろうか。朋之はそのまま表情を変えずに運転を続けている。

「もうすぐ二年経つし……マンションも契約更新やから、また引っ越すやろな。ワンルームに三人は狭いし」
「三人? ああ──、え……?」
「俺また、きぃのこと好きになってるわ。ずっときぃのこと考えてる」

 そんな気はしていた。朋之は美咲に妙に優しくなってきたし、会うときの距離も近くなってきた。美歌を見ていてくれる時も、親の顔をしていた。

「きぃ、俺のこと……いまどう思ってるん?」

 朋之は平静を装っているけれど、緊張しているのは明らかだった。だから運転に支障が出るようなことを言ってはいけない──もちろん、そんなつもりはない。

「ほんまに正直に言うと──大好き」
「えっ、マジで……?」

 朋之は動揺してしまった。ハンドルが一瞬ぶれたけれど、すぐに戻した。

「だから、その……そう言ってくれるのは、すごい嬉しい。家族やったらなぁ、とも何回も思った。でも、再婚は……今は考えてない」

 これも正直に言うと、YESの返事をしたい。けれどそれはまだ、美咲には難しい。

「やっぱ気になる? 元旦那さん」

 薄れてきてはいるけれど、朋之の存在が大きくなってきているけれど、嫌いで別れたわけではないので浮かんできてしまう。

「俺、実は会いに行ってん」
「え……航に? いつ?」
「確か、きぃが悩んでた頃。離婚届出す前やな。きぃは、俺が原因で離婚じゃない、って言ってたけど、どうしても気になって……」
「何て言ってた?」
「きぃと同じこと言ってた。きぃには音楽のほうに進んでもらいたいって。まぁ、そうなったのは確実に俺のせいや、って笑ってたけどな」

 美咲に離婚を言い出したけれど、〝後継ぎの嫁〟という束縛からの解放は航なりの優しさだったのかもしれない。

「あとやっぱり……俺ら過去に何かあったやろ、って言ってた」

 再会して仲良くなるのを見て、美咲には朋之が良いと思ったのかもしれない。

「美歌ちゃんにも、いつかは会いたいって言ってたで」

 離婚してから航とは連絡を取っていないけれど、養育費は忘れずに振り込んでくれている。その感謝もあって、美咲はまだ再婚に踏み切れない。

「俺は真剣に、きぃと一緒になりたいと思ってる。だから、考えといてほしい。急げへんから。できたら──良い返事を聞きたいけど……」
「うん……わかった」
「よし。じゃあ、もう着くから一旦終わりな」

 裕人たちと待ち合わせをしているのは、ショッピングセンターのフードコートだった。最初はカフェを予定していたけれど、美歌を連れてくることになって場所を変更した。

 車を降りてベビーカーに美歌を乗せ、目的地へ向かう。美咲がベビーカーを押して、朋之が荷物を持つ。もしも朋之と再婚したら、これがしばらく日常になるのだろうか。

「美咲ちゃーん、こっち!」

 呼ばれて見回すと、華子が立ち上がって手を振っていた。隣には遥亮と裕人もいた。先に到着して、席を確保してくれていたようだ。華子とはしばらく会っていなかったけれどLINEで近況を報告していたし、裕人も簡単に美咲と朋之の関係を華子と遥亮に話してくれていた。

「あれ? もしかして、山口? 俺、大学のゼミの大塚!」
「ゼミ……あ! 大塚先輩? なんや、先輩やったんや」

 はじめ朋之は少し緊張していたけれど、華子の婚約者が大学の先輩だとわかってずいぶんリラックスしていた。美歌は大勢の大人に驚いて泣いてしまったけれど、朋之に抱っこされてから大人しくなった。
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