ケイトの甘い肉体
      1

 早春の乾いた風が歩道の灰を巻き上げていた。暖かさに隠れて、春風は未だ冷気の刃を含み持って、通行人の肌を擦過した。


 当真麻里は自分の裡で、形にならない不安を抱えて、独り暗い夜道を歩いていた。悩みの種はあの男、浅野勇一に違いなかった。


 しかし格別彼の言動が不快だった訳でもなかった。浅野は彼女の同級生で、突然今日、麻里に言い寄ってきたのだった。


 浅野には既に双方の両親も認める婚約者がいた。島田ケイトというのが、婚約者の名だが、そうでありながら何故急に、自分に言い寄ってきたりしたのだろうか。


 好色な卑劣漢、それが浅野に対する一応の評価だが、それにしても不快さがそれ程でもないというのは、一体どういうことなのだろうか。


 自分がまさか心の底で、浅野に対して、好意以上のものを抱いている。その可能性は否定出来なかった。


 浅野は確かにハンサムで優しい、島田ケイトが羨ましかった。そういう一面の思いはなきにしもあらずとしても、今自分に言い寄ってきたことには、否定的な感情しかない筈だった。


 浅野とケイトは確かに婚約したと聞いている。二人は未だ若く、自分も共有する或る苦難を抱えている。社会的な障壁、周囲の反対は一通りでなかったと思われる。


 それでも二人は強い意志をもって、結ばれた筈だった。それなのに、と麻里は思う。何故また突然、自分などに浅野は色仕掛けを向けてきたのか。


 唯の遊びだろう。そうに違いなかった。ケイトは耀くばかりの美しい女性だ。彼女に比較したら、自分などは極く凡庸な容姿に過ぎない。


 何故そんな幸福な時期に私如きに遊びを仕掛けてきたのだろうか。どう考えても分からなかった。
 

 ふと気が付くと、通行人は彼女独りになっていた。繁華街と迄はいかずとも、さして寂しい地区でもなかった。偶然の為せる業だと思われた。


 心なしか風が冷気を増していた。麻里は薄手の上着を掻き合わせた。心中の悩み事から振り返って、現在の自分に戻った折り、


再び形にならない不安が急速に躰を強張らせた。或いは虫の知らせという奴かもしれなかった。


 麻里は何かしら、自分が、踏み込んではならない領域に既に足を踏み入れていると、強く感じた。


 禁断の不倫に踏み込む、それだけでは済まないような気がした。何か嘗て見たこともない闇の領域、そんなものが直ぐ近くに在る。


 一刻も早く家に帰らなくては。麻里は深夜の街路を駆け始めた。冷風が長い髪の毛を靡かせる。彼女は全速力で疾駆した。


 不意に、後方から何か硬く重い物体が、麻里の後頭部に飛んできて、頭が爆ぜた。


 彼女は悲鳴を挙げた。何者かが彼女に、投石したのだった。麻里は前のめりに路面に倒れ臥した。

 
 夜空は月のない曇天、常夜灯の光に刃渡りの長いナイフが銀色に反射した。背後から現れた何者かが、凶器を高く翳していた。


 麻里は再度悲鳴を挙げた。ナイフがゆっくりと振り下ろされる。


 肉体に切り込む鈍い音、再度ナイフが振り翳された。鮮血が一筋、刃面に滴った。


 続けて力を込めてナイフが振り下ろされた。



      2

 また今日も、固定電話と携帯は鳴らない。亀田浩志は日々そうながら、もう諦めてしまって、ロックのCDとLPを只管聴いた。


 今年の二月、オジー・オズボーンが自身のSNS上にて、ツアーからの引退を公表した。ストーンズ等は未だ活動しているようだが、此処にヘヴィメタルの大きな一角が終焉した。
  

 亀田はこのニュースを見てから、懐かしいライブ盤を頻回聴いていた。時折サバスの曲にて、ザックワイルドの弾くリフが半音程ずれていることに気付く。


 プロなのだから、多分意図的な改変なのだろう。サバスフリークとして名高いザックのことだから、彼なりのサバス解釈ながら、どうしても気になった。



 余りにも著名なスタンダード曲なので、勝手な改変は困りものだ。それにしても、引退は余りにも早く、惜しい。


 と言っても、亀田自身も最近繁く老化を意識している。アース迄含めると、60年代後半からオジー・オズボーンは活動しているので、そろそろ潮時なのだろう。


 オジーだけではない。ギランもハルフォードも最近非道く喉は疲弊している。彼ら自身が最も全盛期の歌唱を取り戻したいに違いない。


 翻って屡々考える。亀田自身の人生も、そろそろ潮時ではないのだろうか。この貧困極まる私立探偵事務所を畳むべき時は、確実に近づいている。


 確かに躰は昔のように思うように動かない。頭脳の方も認知症の兆候が全く出ていないとは限らない。


 介護保険の類は拒否し続けてきた。折りに触れて、感情が昂ぶるときはあり、不安に苛まれることが無い訳でもない。


 亀田も何時までも、タフガイを気取ってはいられなかった。スマホで、介護施設を検索してみた。金持ち向けの高級な施設が多い。


 入所時に無料で、先々を考えると生活保護OKの所でなければならない。すると矢張り特養になってしまうのだろうか。


 何処か郊外のグループホームが好ましかった。夜は個室が宛がわれて、CDを沢山持ち込める施設……。


 その折り、固定電話が鳴り響いた。
 

 冥土一歩手前を遊んでいた意識が一挙に緊張した。


「はい、亀田探偵事務所」


「……あの、私、島田ケイトと申します」


 若い女性の声だった。ゆっくり戦闘モードに切り替えた。久々の顧客は逃したくなかった。


「どのようなご案件でしょう」


「ちょっと込み入った問題がございまして」


「そうですか」


「あの、事務所の近く迄来ているんですけど。これからお伺いして宜しいでしょうか」



「はい、どうぞ。丁度一つ仕事が片付いたところです」


「そうですの、それではこれからお伺い致します」

 電話は直ぐに切れた。予備知識を仕入れることも出来ない。一体どういう依頼なのだろうか。


 音楽を止めて、デスクの上に古い書類の束を乗せた。兎に角何らかの仕事をしていたと偽装しなくてはならない。依頼の内容を様々想像してみた。


 程なくして、ドアのノックが聞こえた。咳払いして立ち上がると、ドアを開いた。


 現れたのはモデルかと見紛う程のかなり目立つ美女だった。未だ相当に若い。学生かなと亀田は思った。


「どうぞ、其処にお座り下さい」


「有難うございます」


「さて、ご用件を伺いましょうか。島田ケイトさんでしたね」


「はい、その前に」彼女は口籠もった。



「何でしょう」


「わたくしについて、御理解を頂かなくてはなりません」


「理解と仰有ると、何です?」


 ケイトは躊躇っている様子だった。


「何なりと仰有って下さい。依頼人の秘密は厳守します」


「でも……」


「分かります。こういう怪しげな興信所の類は、中々信用がないですからね」


「すみません」


「いえ、個人情報を闇で取り引きする輩はいますから。ご心配は当然です。とまれ探偵業法が施行されてから、こういう所の環境はかなり改善されました」


「そうですの。私、法律とか難しいことは分からないんです。私の理解と申しますのもそのことで」


「お話が見えませんが」


「あの、実は私、障害者なんです」


「そうは見えませんが」



「あの、外見から分からないところが、この障害の特徴らしいんです。実は知的障害者なんです」


「それは信じられませんね。貴女の話し方は充分知性的です」


「特別支援学校と一般の学校と教える内容に、そう違いはありませんから」


「成る程、私は差別主義者ではありません。別に構わないんですが、唯、仕事の料金のことを考えます」


「その点は大丈夫です。お金は持ってまいりました。私の父は会社を経営しています」


「そうですか、でしたら、問題ありません」


「有難うございます。それでも、御理解頂かなければならないことは、多いんです。私は普通に読み書きは出来ますが、数字の計算は苦手」


「料金に関しては、繰り返しご説明致しましょう」


「はい、それに非道い方向音痴で、此処にまいりますのも大変でした」



「お電話を頂ければ、事務所の道順をお教え出来ましたが」


「コンビニや交番に尋ねて、漸く辿り着きました」


「それは大変でしたね」


「ええ」


「しかし、誠に失礼ながら、仕事のご依頼のご意思を確認しなくてはなりませんかね」

 
「意思の確認ですわね。はい」



「こう申し上げて、御理解を頂けるかどうか。つまり貴女は契約の主体にはなることが可能なのでしょうか」



「契約を結べるかどうかですわね」

  

「依頼人は貴女ご自身ですか。それともご家族の方?」



「わたくし本人です」


「すると、確か民法に、契約を無効に出来る条項があったような。度々改正があるので、申し訳ない、はっきり言えませんが」



「法律のことは分からないんですの」



「いや、折角私が働いても、無効になって、報酬が頂けないということになれば、困るんです」



「私独りの一存でまいりましたので、申し訳ございません」



「いいえ、謝るには及びません。差別解消法があるので、不当な差別は出来ません。ご依頼をお受けして構わないんですが」



「私独りの意思で大丈夫なんでしょうか」



「それだけ堪能に意思表示出来るなら、大丈夫です。これは余計なことを申し上げましたか」 


「大丈夫でしょうか」



「いえ、意地悪な言い方になりますが、それだけ能力者らしく振る舞っておられるなら、無効とはならない筈です。私も法律家ではないので、これ以上言えません」



「わたくしが考えておりました以上に、私達について御理解を頂けているみたいですわ」



「そうでもないんですが、失礼致しました。それではご依頼の件をお聞かせ願えませんか」




「ええ、実は私、婚約しているんです」



「それはどうも、おめでとうございます」



「婚約者の浅野勇一が、警察に逮捕されたんです」



「何の容疑で」



「当真麻里さん、私達の同級生を殺害した容疑で」



「殺人事件ですか。少しお待ちください」


 亀田は最近の新聞をデスクに出して、漁った。



「ありました。知的障害者、当真麻里さん殺害事件。続報はしかし……見当たりませんが。今日のニュースで報じられましたか」



「いいえ、ニュースにはなっていないと思います」



「すると、逮捕ではなくて、事情聴取だけかもしれませんね。ご心配なさらなくとも、押っ付け釈放されるのでは」


「そうなんでしょうか」



「まず、ケイトさんは二十歳を越してらっしゃいますかね。同級生とは、何処の学校でしょう」



「ILスクールです」



「それはフリースクールですか」



「ええ、四年制の就職支援の学校です。カリキュラムは二年の就労移行支援とほぼ同じと聞いてますけど」
 


「ケイトさん、浅野さん、そして当真さんは其処の同級生。浅野さんは何か疑われるようなことを持っていたのかな」


「あの、はい、浅野は当真さんに付き合ってくれと迫ったらしいです」


 ケイトは肩を震わせていた。


「それは事実なんですね。お辛いでしょう」


「ええ、どうしてそんなことをしたか分かりません。私が居ながら」


「浅野さんは所謂プレーボーイなんですか」


「残念ながらそうかもしれません」



「うむ、こう言っては何ですが、貴女方の恋愛というのは、何処か一般とは異なるのですか。不適切な質問でしたら、ごめんなさい」


「いいえ、そうですわね。恋愛には社会的な障壁が多いです。ILスクールでは性教育も教わっています」


「社会的障壁、難しい言葉をご存知ですね」



「いえ、私達は何かと本当に生きづらいんです。私達は平均寿命も高くありませんわ。生きていくのだけでも大変で、恋愛も非常に困難というのが、実状なんです」



 亀田は頷いた。



「貴女のような聡明な方もいるのに、社会の目は厳しい。大分昔になりますが、例えばテレビドラマで取り上げられた際に、知的障害者が猫並みに扱われたことがありました」


「存じ上げません」


「そうでしょう、昔の話です。確か国営放送で、私の憤りはちょっと半端ではなかったんですがね。まあ、それは良いとして」


「浅野の釈放の方、宜しく御願い致します」


「県警に知人がいます。口添えしてみましょう」



「有難うございます。でも実はそれだけではないんです」



「と仰有ると」


「あの、この殺人事件の解決の方も、御願いしたいんです」



「それはちょっと、御理解を頂けますかね。現実の私立探偵は殺人事件の調査など、滅多に請け負わない」


「無理なんでしょうか」


「いや、過去に経験はあります。仕事ですから、ご依頼を受けても良いんですが、私は大手の事務所でもなく、個人で遣ってますから、情報収集のネットワークもないし」


「経験がおありでしたら、御願い致します」


 亀田は嘆息した。


「分かりました。引き受けましょう」



    3

 新しく県内に出店した牛丼チェーン店、店内は満席の客でごった返していた。一番奥の席に、亀田と従兄弟の安田警部補が対座していた。


 亀田達はテーブル上のタブレットの信号を見て、セルフサービスの牛飯をカウンターに取りに行った。各々味噌汁付きの並盛を運んできた。


「脂身が多いな」亀田は言った。「肉の量は多いけれど」



「御前の食の好みに付き合わされるのも、楽じゃない」



「別に好みではないんですよ。探偵の稼ぎでは牛丼かハンバーガーしかありつけない」亀田は丼をかっ込んだ。「う~ん、吉野家やすき家に比べて、矢張り脂っこいかな」


「栄養がありそうで、美味いと思うが」


「牛飯は良いとして、浅野勇一に関して、教えてくださいよ」


 安田警部補は紙ナプキンで口を拭った。



「対応に苦慮している。パニック障害を起こして、事情聴取が成立しない感じだな」



「矢張りそうですか。余り遣り過ぎると、人権団体から苦情が来ますよ」



「差別はない。問題はない筈だ」



「大分県とかでは、警官の職質で圧死事件が起きてますけど」



「私は制服警官ではない。武道を専門にしている体格のいい警官は、虚弱者に対して、屡々不幸な事故を起こす」



「事故ですか。差別は何処にでもあると思いますが。米国で言えば、アフリカ系に対する警官の不当な処遇」



「差別は何処にでもある。とは、御前は部落解放同盟か」



「そういうものも参考になります。北原理論でしたか。実は内容は詳しく知りませんけれど」
 

「すべてのものが差別である。か、問題は差別の定義だと思うが」



「どう考えても差別的なことを、差別ではないと、論理的に言いくるめる社会学があって、驚いたことがあります」


「それも恐らく正しいと思う」



「で、浅野勇一は疑わしいんですか」



「ああ、フリースクールのプレーボーイだな。婚約していながら、色々な女の子と遊んでいる」


「フリースクールと言っても、其処は高等部ではないんですよね。四年制の大学に匹敵する学校」


「学校法人化を目指しているというから、大学ではない。だがその年齢層が集まっているから、痴情沙汰が絶えないようだ」


「性教育も行っているとか」


「スクールも交際を奨励している。するとトラブルは不可避だろう」



「浅野は怪しいんですね」


「ああ、しかし決定的証拠に欠けるから、長く拘束は出来ない」



「それを伺って、安心しました。他に容疑者は」


「いるだろうな。御前、フリースクールを当たってみろ。但しそれこそ、差別のないようにな」


「分かりました。後、浅野の親にも」


「この世界は、親権者の力が強いからな」



「それが考えものなんです。親が障害者の子供を殺しても、無罪を求める運動が起きるとか」


「親の苦しみは相当なものだ、という輩だろう。障害者だろうが、子供の人権は尊重されるべきと私は考えるが」


「全くですね。保守的な社会福祉思想は何処か可笑しいですよ」


「そういう御前は、左に傾いているようだが」



「そうかもしれません。気を付けなくては……ところで、妙な言葉になりますが、健常者の変質者の線は?」


「そちらも当然追っている。今のところ、容疑濃厚な者はいない」



「それじゃ、またですね」



 亀田は最後に味噌汁を飲み干した。



        4

 新緑の季節が近づいていた。車道と歩道を隔てるツツジの生け垣が最近になり、紅い蕾を持ち始めた。


 亀田は常の如く、廃車寸前の中古車を運転して、郊外のILスクールへと向かった。鹿児島市から、辺鄙な春山地区へと、30分程の距離だった。


 ILスクールに到着した。意外に広大なグランドの一隅に車を停めた。フリースクールとしては規模は大きいに相違ない、学校の建物はマンションのようだった。


 
 管理人室の如き受け付けにて、案内を請うた。浅野勇一、ケイト、当真麻里は同じクラスで、その担任教師に会いたい旨を伝えた。


 亀田は事件を報じている新聞を携えていた。広げて確認した。知的障害者殺人事件、当真麻里の名前は出ているが、事件の概要は極端に情報量は少なかった。



 トップシークレットとして、県警が情報を制限したに違いなかった。亀田は後に警部補から事件の詳細な事情を聞いた。新聞を畳み、教員室へと向かった。



 折しも12時過ぎ、教師達は各々弁当を広げていた。桂川という教員を入口で尋ねた。



「私が桂川です。此方にどうぞ」



 食事中の桂川が手招きしてくれた。彼は態々椅子を亀田の為に対面に付けた。



「亀田と申します。私立探偵です」



「探偵さんですか。警察から色々と訊かれましたが、同じようにお答えして良いのだろうか」



「警察と同一視して頂けるなら有り難いです」



「何を調べてらっしゃるんですか」



「浅野勇一君について、ですが、先ずはこの学校に関して、お聞かせ願えますか」



「学校ですか、端的に言って、若者達の居場所です」



「教える教科よりも、居場所として重要?」



「彼らは社会の中に真実居場所がないので勿論重要です」



「教科は就職支援とお聞きしましたが」




「そうですが、障害者の雇用率をご存知ですか」



「詳しくは知りません」



「一般企業が障害者を雇用すべき枠は現在僅か2.7%です。最近これでも高くなったので、以前は未だ低かった」



「障害者を雇用すれば、企業に補助金を出す仕組みでしょうか」


 
 桂川は頷いた。



「この2.7%も殆ど未達成なのですよ。障害者基本法で企業の義務とされているのに、日本の企業はこれを無視しています」



「社会の中に居場所がないと仰有るのは、そういうことですか」



「ええ。就職支援と言っても、ですから実際にそれが叶うのは極く少数でしかありません」



「すると、此処を卒業して、大半の方は何処へ?」



「就労継続支援、A型かB型、詰まり作業所です」




「A Bの違いは何ですか?」



「A型は雇用契約を結び、最低賃金が出ます。B型は雇用契約はなく、飽くまで福祉的就労、工賃は時給200円もあれば上等」



「厳しいんですね」



「そうですよ。この国の社会福祉の根本は未だ慈恵。上から下ろされる恵に過ぎません。それを証拠に……」



「続きをどうぞ」



「いや、貴方は殺人事件の調査にいらしたと思っていましたので。こんなことまで必要ですか」



「お願い致します。この世界のことを知りたいんです。結局それは殺人事件の動機を探求する上で有益でしょう」




「そうですか。要するに例えば、ノーマライゼーションという言葉自体は何とか普及しました。しかし、その中心となるべき自己決定権は決して確立されてはいないんです」



「ノーマライゼーション、バンクミケルセンの思想でしたか」



「ええ。その通り、普及はしていても、この考え方を欧米から輸入すべき研究者達。は、慈恵の足枷から自由ではないようなのですよ」



「と仰有ると」




「ミケルセンもニイリェも人道主義に留まっています。もっと実践的なリハビリテーションの理論が、ヴォルフェンスベルガーにはあるのに、それは別概念であることを理由に、頑なに輸入を拒んでいます。日本では人道主義しか許されないらしいんです」


 桂川は箸をビニール袋に収めた。弁当はもう食べないらしかった。亀田は其処で質問を転じた。



「有難うございます。さてそれでは浅野勇一について、お尋ねします」



「何というか、憎めない青年です。遊び過ぎる位に遊ぶ男でしたが、あんな美しいケイトさんを射止めて、落ち着いたと思っていましたが」



「彼は暴力的傾向はありますか」



「特に病的な暴力癖はありません」



「誰かと喧嘩したりとかは」



「三日程前ですか、今から思うと、浅野君が当真さんに言い寄った直後に、加藤慎二君と殴り合いの喧嘩をしていた」




「それは興味深いですね。加藤というのは当真さんの恋人なんですか」



「そうです。加藤君と当真さんは非常に親しかった」



「二人は肉体関係にありましたか」



「でしょうな。皆に知られたカップルでした」


 亀田はメモ帳を出して、加藤慎二の名を書き留めた。



「他には暴力沙汰はありませんか」



「此処の生徒は皆、穏やかです。知的障害者というと切れ易いイメージがあるかもしれませんが」



「教科には性教育もあって、痴情沙汰が多いとか」



「それもそうかもしれませんが、普通の若者も持っている傾向でしょう。特にウチの生徒だけ特殊ということはありません」



 亀田は、教育方針には饒舌だが、生徒の情報は余り洩らさないのを感じた。この教師に質問しても、不毛かもしれないと思った。


「浅野君は両親との関係は如何ですか」



「彼の父親は幼少期に亡くなっています。母子家庭で、母の孝子さんとの関係は良好のようです」



「他には親戚は?」





「いないようです。孤独な母子です」



「他に、付け加えるべき情報はありますか」




「ないと思いますが……」



「分かりました。有難うございました」



 亀田はILスクールを辞した。




        5


 亀田は中古車に乗って、鹿児島市内を走った。宇宿地区は実際驚くべき発展が見られた。マリンポートに外国大型客船が入港するからだろうか。



 同じく南港寄りの三和地区はしかし、発展から完全に取り残された、昭和や平成初期の住宅が、間隔も余りなく、所狭しと並んでいた。


 三和地区を道路沿いに一回りしてから、川岸に駐車した。浅野の家は歩いて探す他なかった。亀田は簡易な地図を見ながら、三和町の集落に入った。



 程なく、浅野宅は見つかった。この辺りは何処も同じような造りの家ばかり。貧困層の匂いがモルタルや板張りの壁に染み付いているようだった。


 
 亀田はブザーを押して待った。
 五十路の女性が玄関の戸を開けた。浅野孝子は意外な程小奇麗にしていた。



「警察の方ですか」



「いえ、私立探偵の亀田と申します」




「私立探偵?」



「ええ。島田ケイトさんの依頼で、勇一君の疑いを晴らす為に動いております」




「それでは勇一の味方なのですね」




「その通りです。少しお邪魔して宜しいでしょうか」



「ええ。狭い所ですがどうぞ」




 亀田は茶の間のテーブルに着席した。孝子が茶を運んできた。



「探偵さんの事務所は天文館なんですか」




「ほぼそうですが、廃ビル寸前のところです」



「そうですか、で、当真麻里さん、殺されたんですね。本当に恐ろしいこと」




「そうですね」



「どんな状況だったんでしょう」




 二人は暫く、殺人事件の現場について会話した。




 亀田は自分のスマホが鳴ったので、取った。


 相手は安田警部補だった。


 亀田は、浅野孝子が何か言ったので、聞き咎めた。



 警部補の声がストレートに入ってきた。




「凶器のナイフが見つかった」




「何処でですか」



「現場から500メートル程離れた所の側溝から見つかった。指紋はない」




「そうですか」



「ナイフの販売ルートを洗ってみる。御前は何か進展はあったか?」



「何もありません。ええ。今、勇一の母親宅です。何かあればまた連絡お願い致します」



 亀田は電話を切った。



「失礼しました。腎臓のご病気ですか」



「はい、少し悪いんです」



「お大事に。で、勇一君について、お尋ねします」
 


「勇一は人殺しの出来るような子じゃありません」



「そうでしょうとも……此方は勇一君の本棚ですか」




「はい」



 本棚を調べてみた。漫画が多かった。進撃の巨人、他。下段はDVDになっていた。其方に興味があった。13日の金曜日、サスペリア、テキサスチェンソー。ホラー映画ばかりだった。



「確かにそうですね」



「探偵さん、皮肉ですか」



「いや、そんなつもりは」



「勇一は確かに残酷な映画を好んでいます。でも子供の嗜好が何だというんです。私はあの子を愛しています。ええ。あの子は現実には虫も殺せないような性格です」



「私は兎も角、警察はこの棚を見て、容疑を濃くするかもしれません。誰か弁護士に知り合いは?」



「おりません。ご覧の通り、私達は島田家とは雲泥の差の貧乏人なんです」


「貴女は他に犯人の心当たりはありませんか」



「そうですね、ILスクールの教師のセクハラ疑惑を聞いたことがございます」


「教師というと桂川氏ですか」



「はい」


 亀田は表情を変えた。


「桂川氏のどんな噂を聞かれたんですか」



「女生徒に淫らな行為をしていたとか」




「どの女生徒ですか」




「詳しくは存じあげません」



「分かりました。大変参考になりました」



       6


 ケイトは浅い眠りに溶け込んでいた。悪夢は相当に苛烈で、イメージからイメージへと飛翔した。紅い光の明滅する地獄の風景、彼女の眼前に、死神が大きな鎌を翳した。


 ケイトは悲鳴を上げて、目覚めた。深夜二時頃、自分のベッド上だった。冷や汗をかいていて、躰の震えが止まらなかった。



 ケイトは何者かの気配を感じた。部屋の中に誰か居る。間違いなかった。



「誰、誰か居るの?」



 彼女は暗闇で壁の、電灯スイッチを手探りした。スイッチを入れた。幾度となくカタカタ押しても、電灯はつかない。



 彼女は腹の奥底から込み上げる恐怖心を覚えた。



「誰、誰なの?」



 暗闇の直ぐ近くで、何者かのくぐもった声が聞こえた。性別不詳の潰れた声。




「……次は御前だ」



 ケイトは再度甲高い悲鳴を上げた。真実生命の危険を感じた。



「……待っていろ、次は御前だ」



 ケイトは手探りで、ベッドサイドのスマホを取った。震える手で、亀田の連絡先をタップした。



「亀田さん、殺される、助けて……」



「……今は殺さない。だが常に狙っているぞ」



 ドアの開く音、何者かは出て行った。



「ケイトさん、大丈夫ですか。警察を呼びましょう」



 20分後、亀田は島田家の邸宅に到着した。

 
 警察は既に来ていた。亀田が車を止めると、安田警部補が近づいてきた。



「大丈夫だったのですか、ケイトさんは」





「彼女は無傷だ。裏口のドアの鍵が壊されていて、何者かが押し入っている」




「彼女が無事で良かった。勇一君は未だ拘束中ですか」



「そうだ」




「それなら、勇一君は無実だ。これで分かったでしょう」




「そうだな、他に容疑濃厚な者は居るかな」



「教師の桂川氏は」




「御前もそう思うか」




「警察は桂川を追っているんですね」




「ああ、彼に今夜のアリバイはない」




「そうなんですか。で、今は邸に入れないんでしょう」




「初動捜査中だ、済まない」




「ケイトさんにも会えない?」



「悪いが、取り調べ中だ」




「私は彼女に呼ばれたんですが」



「御前は一軍ではない、堪えてくれ」



「分かりました」



 亀田は自分の車に戻った。ふと思い返して、運転席の窓を開けた。



「一つお願いがあります」




「何だ?」



 亀田は警部補に、或る要求を伝えた。



「そんなものが必要なのか」



「ええ。独自に調査したいので」



「分かった。朝、渡そう」



 亀田は名残惜し気に窓を閉め、車をスタートさせた。




        7

 その日は夕方から篠突く雨が降り出した。折角開花した桜並木が散るのではないかと心配された。


 亀田は再び、三和地区迄車を走らせた。ワイパーの動きが通常より鈍く感じられる。多少降灰しているらしかった。


 同じ川岸に駐車すると、徒歩で浅野宅に向かった。


 冷たい雨を躰に受けた。傘を差す気にはならなかった。



 浅野宅の玄関のブザーを押した。反応は速かった。



「どうも、私立探偵の亀田です。またお邪魔致します」




 孝子は驚いた様子だった。



「探偵さんですか。勇一はもう帰ってきましたが」


「一寸上がって宜しいでしょうか」




「ええ。どうぞ」



 勇一が茶の間に佇んでいた。初対面だったが、亀田の暗い表情を見咎めた。


「探偵さんですよね。ケイトの雇った」



「勇一君だね、まあ、其処に座りたまえ」



 三人はテーブルを挟んで対座した。孝子は茶を注いだ。


「探偵さん、今日は一体何ですの」



「実はですね、もう既に何もかも分かっているんです」



「探偵さん、どういう意味なんですか」



「勇一君、黙って聞いていてくれないか。済まないが」



「母が何か?」



「もう何もかも分かってらっしゃるんですね」



 孝子は表情を変えた。



「出来れば、ご自身から話して頂けませんか」



「いえ、申し上げられません」




「そうですか、何もかも分かっていると申し上げましたが、未だ可能性は二つあるんです」


「と仰有いますと」



「率直に申しましょう。孝子さん、貴女が犯人の場合と、勇一君が犯人である可能性」



「……」



「私です」孝子は言った。「私が当真麻里さんを殺しました」




「動機の点から、孝子さん、貴女が犯人と思っていますが、勇一君が殺した可能性も排除出来ない」



「探偵さん、俺が麻里を殺した」




「君は黙って聞いていてくれないか。残念ながら君には殺害の動機がない」



「何故分かったんですか」孝子が訊いた。



「貴女の失言ですよ」




「矢張りそうですか」



「ええ。私達が、当真さんの殺害現場について話していた折り、私の携帯が鳴った。貴女が何か言葉を洩らして、私は聞き返した。……私には、透析があった、と聞こえた。だから私は人工透析のことと思い、腎臓の病気かと聞き返した。貴女は頷いたが、調べてみると貴女は腎臓疾患ではあるけれど、透析は受けていない。すると貴女は、投石があったと言ったんですね。確かに犯人は麻里さんに投石していた。がそれはトップシークレットでニュースでは報じていない」





「私が殺しました」




「投石を知っていたのは、貴女が犯人だからか、勇一から話を聞いたかだ」




「それはありません」




「勇一が警察に拘束されている間に、貴女がケイトさん宅に忍び込んで、勇一の容疑を晴らした可能性は残る」



「俺が殺した」



「君には動機がない。私は警察から孝子さんの写真を貰って、調査した。貴女は宇宿の刃物店でナイフを買っていた。極く販売ルートの限られたナイフだ」





「私が殺した。ケイトが不妊手術に応じないから、殺す気になった。唯殺すのでなく、散々怖がらせてから実行するつもりだった。だから先に麻里を殺害した」



「貴女は勇一を溺愛していた。ケイトが勇一君の子供を宿すのは耐えられなかった」




「愚かでした、本当に。私は勇一を愛しています。恐らく男性として」



「玄関に警察が来ています。大人しく連行を承諾して下さい」











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荒野の映像作家

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