隠したがりの傷心にゃんこは冷徹上司に拾われて

零れたコーヒーと溢れる想い

 オフィスに戻り仕事に励んでいると、あっという間に時間が過ぎてゆく。もう少しで定時の十七時半がやってくる。
 今日は仕事も落ち着いており、残業も少ないだろう。もとより、熊鞍さんの仕事のスピードが速く、あの件以降、私の残業の時間は格段に減ったのだが。
 それでも、まだ異動して一つの季節しか超えていない私は、皆のペースにはついていけていない。翔也お兄ちゃんとの約束もあり、急ピッチで仕事を終わらせようとしたが、あと一時間くらいかかってしまいそうだ。

 ため息を飲み込み、パソコンと向き合う。すると、コトンとパソコンの隣に、いい香りのコーヒーが置かれた。
 甘い香りが鼻をかすめて、それが熊鞍さんの香水だと瞬時に察する。それで、余計に不思議になる。
 え? と顔を上げた。

「コーヒー。たまには、ね。私、今日はもう上がるから」

 熊鞍さんはニコリとも笑わずに、そう言い切る。
 素直になれないだけだろうと、「ありがとうございます」と張り付けた笑みで言った。
 仕事中はこんな顔しかできない。私も大概、熊鞍さんと同じかもしれない。

「お疲れ様」

 熊鞍さんは既に鞄を手にしており、くるりと背を向ける。
 コーヒーに手を伸ばしたところで、オフィスの空気ががらりと変わった。部長が打ち合わせから戻ってきたのだ。
 帰る支度をしていた社員たちの手が一瞬止まる。

「仕事が終わった者は帰るように」

 部長のその一言で、皆の手が動き出す。仕事が残っている者たちは、しゃきっとした。
 最近、部長のまとう空気が柔らかくなったと、営業さんたちが話していたことを思い出す。少し前までの部長だったら、こんなことは言わなかっただろうなと、私も感じる。

「猫宮、残業か?」

 ちらりと私のデスクを覗いて、部長が言う。

「はい、今日はあと一時間くらいで」

 部長はそうか、というと私の机に置かれたコーヒーをちらりと見る。

「コーヒー、もらってもいいか? 打ち合わせでのどが渇いて」

「だったら、私新しいの淹れてきますよ?」

 私は席を立とうとした。けれど、部長がそれを制す。

「これでいい」

 でも、と言いかけたけれど、部長がコーヒーを手にした。

 すると突然、ドスドスと大きな足音が聞こえて、そちらを振り向く。
 熊鞍さんが、戻ってきていた。忘れ物かと思ったけれど、彼女の形相にぎょっとした。

「部長、コーヒーなら私が淹れ直します!」

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