振り解いて、世界
気付けなかった真実


 人には踏み込まれたくないことの一つや二つあるだろう。
 もちろん、セレンにだって。
 わたしは、竹ざるの上に積まれたりんごを一つ手に取って小ぶりの買い物かごにポトリと落とした。

「いろ巴ちゃん、いらっしゃい。今日はいつもよりも安くするよ」

 遠くから聞こえてくる、しゃがれた優しい声。
 午後の暖かい日差しが差し込む年季の入った青果店の店先で、わたしははっと顔を上げた。
 店の奥から頬がぷっくりとした、たれ眉のおじいちゃんがにこにことやって来る。
 顔馴染みのおじいちゃんの姿を目にして、肩の力が少し抜けたような気分になった。

 自宅のアパート近くにある小さな商店街は、時代遅れな雰囲気を残しつつも活気があって心が落ち着く。
 悩みごとや悲しい出来事があっても、この商店街の通りを歩いているうちに不思議と気分が晴れた。
 今日もそれを求めてここへ来たけど、ずっしりと重くなった心には今のところ何の変化もない。
 わたしは溜め息を飲み込んで、おじいちゃんに「こんにちは」と会釈した。

「今日はいいものがたくさん入ってるよ。例えば……」

 おじいちゃんが色々と話してくれるけど、内容がまったく頭に入ってこない。
 見るからに新鮮そうな色とりどりの野菜や果物を前にしても、わたしの意識の矛先はセレンにあった。

 そう、やっぱり人には踏み込まれたくないことの一つや二つはあるに決まっている。
 けれど、今朝はセレンにはっきりと線引きされて凄くショックだった。
 何かあるなら相談して欲しかった。
 わたしにできることがあれば何でもするし、例えできなくても、どうすればいいのか全力で一緒に考えるのに。
 だからこうしてわたしと距離を置かないで、いつでもいいから何でも話して。
 
 今朝、セレンにそう伝えたかったけど気持ちだけが先走って言葉が出てこなかった。
 こんな話は、あのタイミングじゃないととてもできそうにない。
 今日の夜にセレンと話し合ったところで、今と同じ熱量で素直に話すのは無理だ。
 どう考えても、恥ずかしすぎる。

「いろ巴ちゃん、りんご何個買うつもり……?」

 おじいちゃんに声をかけられ、かごいっぱいにりんごを入れていたことに気付く。
 右腕に引っ掛けていたかごの取っ手が、りんごの重みで肌に食い込んで跡がついていた。

「すみません……!」
「いいよ、安くしとくね」
「はい……ありがとうございます」

 こんなに買うつもりはなかったんですとも言えず、かごに入ったりんごの料金を支払って店を後にする。
 商店街の通りから空を見上げると、さっきまで晴れていた空がどんよりとした暗い雲に覆われ始めていた。
 今から一雨降りそうだ。
 もう少し商店街をぶらぶらする予定だったけど、早めに家に帰ろう。
 わたしは商店街の出口へ足早に向かった。

 わたしにとって、セレンは誰よりも安心できる存在だった。
 セレンも、わたしに対してそう思っているんだろうとどこかで思い込んでいたのかもしれない。
 いつからわたしはそんな勘違いを起こしていたんだろう。
 わたしが求めるようにセレンからも求めて欲しいなんて、わがままもいいところだ。

 前を歩く人達を追い抜く度に、袋に入ったたくさんのりんごが足に当たってゆらゆらと揺れる。
 手の中のナイロン袋の紐が伸びて痛かったから、反対側の手に持ち替えた。

「ちょっと重いな……」
 
 まるで、セレンに対するわたしの気持ちの重みを物語っているみたいだ。
 自分でも気が付かないうちに、セレンに甘えきっていた。
 隣にいて優しくして貰うのが当たり前になっていた。
 その優しさに答えられていただろうか。
 思い返せば、わたしはセレンのために何一つできていなかった。
 セレンに何でも話して欲しいと望むなら、わたしが安心できる存在にならないといけない。
 思いつくことは何でもやって、セレンとちゃんと向き合って。
 そうすれば、少しずつ変わっていくかもしれない。
 
 もうすぐで商店街の通りを抜ける。
 気分が軽くなってきた。
 これなら今日の夜、セレンとまた笑って顔を合わせられそうだ。大丈夫。
 そう思った時だった。

「ちょっと待ちなさいよ。わたしの前を素通りするってどういうこと?」

 商店街を出てすぐのところで、わたしは聞き覚えのある声にピタリと足を止めた。
  
 
 
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