振り解いて、世界
番外編/このからだは知っている


  
「ただいま」

 セレンの声で、ハッと我に返る。
 振り向くと、開かれた分厚いドアの向こうから室内を覗くセレンが立っていた。

「おかえり、もうそんな時間だっけ?」
 
 防音室の白い壁にかかった簡素な時計の針は12時を指している。
 この部屋に入ったのは簡単な夕飯をすませてすぐだったから、かれこれ6時間近くいたことになるだろうか。
 予想以上に長くいたなと少し驚きつつ、グランドピアノの譜面台に立てかけてあったタブレットのディスプレイに目を移す。
 そこには、音符のぎっしり詰まった譜面が大きく映し出されていて、じわじわと充実感がみなぎった。

「よし、今日はここまでにしよっかな」

 タブレットの画面を消してイスから立ち上がった途端、いつの間にか室内にいたセレンに後ろから抱きしめられる。
 わたしの首筋に顔を埋めたセレンから、アルコールの匂いがふわりと漂った。

「もしかして、酔ってる?」
「んー、ちょっと」
「めずらしいなぁ。ちょっとどころじゃなさそうだけど」
「そうかな」
「そうだよ。たくさん飲んだの? 大丈夫?」

 肩に回ったセレンの腕に手を置くと、わたしを抱きしめる力が強くなる。
 
「セッションの途中で帰って来た。今日は来ると思ってたのに」
「うそ、ごめんね。曲作るのに夢中になっちゃってさ。もしかして待っててくれてた?」
「待ってたよ。連絡もしたのに」
「ごめんね。気が散るから、スマホはリビングに置きっぱなしだった」
 
 顎に手を添えられ導かれるまま身体ごと振り返ると、瞬く間に唇を奪われる。
 セレンの舌が歯列を割入って、わたしの舌を丁寧に絡め取ると、とろとろと口内を溶かすようにかき乱した。

 凄く上手な、気持ちのいいキス。
 これまでわたしの知らない女の人達とたくさんしてきたのかなと思うとかなり複雑な気分になる。
 きっと相手の女の人達もキスが上手かったんだろう、経験のないわたしとは違って―――なんて。
 両思いになってすぐの頃は少しも気にならなかったことなのに、付き合い始めて2ヶ月がたった今はふとした瞬間に正体不明の独占欲で頭がいっぱいになってしまう。

「セレンばっかりずるい」
 
 セレンの頬を両手で包み込み、顔を離す。
 途中でキスを止めたからなのか、セレンはわたしの唇にまとわりつくような視線を向けてきた。

「何がずるいの?」
「セレンはわたし以外の女の人達をたくさん知ってるもん」
「心に残ってないから知らないのと一緒だよ。おれが知ってるのはいろ巴だけ」
「セレンが触りたいと思う相手は、わたしだけが良かった。そんなの無理だって分かってるんだけど、過去に他の女の人にも同じことをしてたんだと思ったら嫌なの」
 
 セレンの頬を包んでいた両手をゆっくりと剥がされる。
 長い指を優しく絡められぎゅっと握られた後、セレンの頬が鼻先を掠めた。
 
「自分からこんなに求めたことなんかないよ。四六時中、触りたいと思ってる。いろ巴には言えないようなことも想像してるよ」
「え、何? 何の想像してるの」
「当ててみて」
 
 唇の端に、何度も軽いキスが落ちてくる。
 柔らかい唇の感触にうっとりとしている間に、セレンはわたしが着ているトレーナーの中にするりと手を入れ、ブラのホックを外した。
 温かい空気が熱気に変わった防音室は、蛍光灯が煌々と白い光を放ち続けている。
 恥ずかしくなったわたしがグランドピアノへ向き直ると、セレンは逃がさないとでも言うように後ろから手を伸ばしてきた。
 いつもよりも大胆な手つきでささやかな胸に触れられ、自然と身体が跳ねる。

「ちょっと!」
「他の女なんか絶対むり。少しも触れたいと思わない」
「でもわたし全然スタイル良くないし、キスもこういうのも全部してもらってるからセレンが満足できないんじゃないかなって思って……」
「だから激しくしてってこと?」
「何でそうなるの! それとこれとは別でしょ!?」
「一緒だよ。不安になるくらいなら優しく抱くのやめようかな」
「ちょっと待って、どういう意味?」
「あとで分かるよ」

 
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