イケメンシェフの溺愛レシピ


「さ、おいしいうちに召し上がってください。今朝、仕入れてきたばかりの甘鯛ですから」

自分の目を信じている哲也と同じ目で、父親が言った。その表情を見ると、先ほど母親似だと思った哲也が父親にも似ていると思えてくるから不思議なものだ。
進められるままにほんのり白いお刺身の一切れを口に入れ、綾乃はつい表情をほころばせる。ぷりぷりした食感に、ほんのりとやさしいあまみとうまみが口の中で溶け合う。
その幸せそうな顔をみた哲也の母親は、哲也がいつもするようににこやかに笑った。

「いい表情ね。哲也も作り甲斐があるでしょう」

自分の食いしん坊っぷりがばれたと綾乃がつい恥ずかしくなって顔を赤らめるが、哲也は気にしないで笑顔をみせる。ええ、と言って。

テレビドラマに慣れ親しんでいたせいか、もっと厳しい展開(例えば、おまえにうちの息子は釣り合わん!など)を想像していた綾乃にとって、想像以上に和やかで心地よい時間だった。

たけ久の最上級のフルコースが格別なのはもちろん、とても心地のいい時間がゆるやかに流れていく。進められるがままにいただく貴重な日本酒はゆっくりと緊張を解いていく。大きな窓ガラスの向こうには静かな竹林が広がり、とても都心とは思えない空間。その贅沢な時間の意味に気づくとき、幸せだけど少しだけ勝手に不安になる。
それは先ほどイタリアのブランドショップで買い物をしたときに感じたようなもの。哲也が自分と違う世界の人間に思えるからだ。その違和感を、哲也はわかってくれるだろうか。言葉にしたら、理解しようとしてくれるだろうか。

そしてその妙な違和感は、やはり間違っていなかった。
デザートの栗を使ったムースが登場したときだった。

「それで、綾乃さんはいつご退職なさるの?」

にこやかな哲也の母親。

「え?」

綾乃は思わず目を丸くした。

「たけ久の経営を哲也に任せることになるから、綾乃さんにも手伝ってもらうことも多くなると思うんですよ」

哲也の父親が先ほどよりぐっと真面目な顔をして言った。
経営を任せる。手伝ってもらうことになる。
どういうこと?
そう聞きたい気持ちに気づいた哲也はすかさず言った。

「綾乃には今まで通り仕事を続けてもらうつもりだ。たけ久の経営のことも心配しなくていい。俺はきちんと仕事をこなすよ。もちろんコン・ブリオの経営陣にフォローに回ってもらう。今まで以上の結果を出すと約束しよう」
「そういうことではありませんのよ。私たちは覚悟を持っていただきたいの」

優しい口調ではあったが、哲也の母親ははっきりと言った。
そしてその隣で父親が言った。

「石崎の姓を名乗り、この家に入るということはそういうことだ」
「いつの時代の話をしてるんですか。」
「時代ではない。この家のルールだ」

哲也の言葉に、父親はより強い口調で言った。

「お前に好きなように勉強させたのは好きなように生きさせるためではない。広い視野を身に着けさせるためだ。たけ久をなくすわけにいかない」
「だから、経営は今まで以上の結果を出すと」
「数字の問題ではない。一族になる以上、ルールに従ってもらう」
「ルールなんて」

哲也が言い返そうとしたところで綾乃がわずかに彼に視線を向けた。それに気づいた哲也はそれ以上を言うのを止めた。デザートに合わせて用意されたコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。

「…今日は、もうやめましょう。また改めて来ますから。」

その哲也の言葉に彼の両親も静かに頷いて、2時間半ほどの食事は終わりを告げた。



帰りの車の中で、しばらくの沈黙の後、大きな交差点の赤信号で止まると哲也は言った。

「悪かった。変な話になって」

窓の外の夜景を見ていた綾乃は慌てて視線を哲也に移す。彼の申し訳なさそうな横顔は、見るのがつらかった。

「ううん。こちらこそ気の利いたことが言えなくてごめんなさいね。わかっていたつもりだったけど、あなたが背負ってる大きなものに驚いちゃって。」
「古い家なんだ。でも気にしなくていい。俺は、君と結婚したい。そして君にやりたいことをやって、好きに生きて欲しい。思った通りに生きる君が好きなんだ。」

まっすぐな愛の言葉に、彼の瞳が夜の中で強く輝いていて、綾乃は視線を奪われる。こんなに素晴らしい人と一緒にいられる幸せを、どう言葉にしたら、どう伝えたらいいだろう。

「そのことは変わらないし、これからも覚えていて欲しい」

それだけ言うと信号が変わって、哲也は再び前を見て車を走らせた。
思った通りに生きる君が好きなんて。
そんな言葉を本心で言える人は、決して多くない。哲也のすばらしさを知る。そしてそれに憧れるような気持で綾乃も思う。
哲也にもまっすぐに進んで欲しいと。進むべき道を、そのまま進んで欲しいと。

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