弊社の副社長に口説かれています
「そもそもそんな事実がないから、証拠なんて集めようがないってはっきり言えよ」

尚登のダメ押しに史絵瑠の奥歯がぎりりと嫌な音を立てた。

「そんな大噓ついてまで陽葵と住みたいと言う、てめえの本心はなんなの?」

史絵瑠は「はは!」と大きな声で笑った、そして椅子にふんぞり返るように座り、なおも怯える陽葵を見下ろした。

「その女が嫌いだからよ」

訳が判らない理論に、陽葵は尚登の手をぎゅっと握りしめ、尚登はふんと鼻白んだ。

「あんたを追い出して清々したけど、今度は自分が家を出たくなっても許してくれないのよ。寂しいとか言っちゃってさ、面倒くさいったらありゃしない。あんたが羨ましかった、とっくに親の束縛を離れて自由に生きているあんたが」

陽葵は小さく首を横に振った、自由などなかった、生きていくのに必死だったと言いたい。

「いつでもどこでもいい子ちゃんのあんたが嫌いだった。だから迷惑をかけてやるつもりで一緒に住みたいとお願いしたの。一言「いいよ」と言ってくれれば速攻行くつもりでいたのに」

まったくの嘘をついて出て行くのは簡単だ、だがそうしてまで家を出て行かなかったのはその事によって叱られたくはなかったからだ、見つかって連れ戻されることも避けたい。陽葵が「いいよ」と言ってくれたなら、あとの責任は陽葵に被せるつもりだった。陽葵の性格は判っている、自ら「いいよ」と言ったなら史絵瑠がどんな行いをしても庇い続けてくれただろうと変な自信がある──そう、そのまま姿をくらましても、陽葵はずっと自分と一緒に暮らしていると嘘をついてくれただろう。その後がどうなるかなど自分には関係ないことだ。

「陽葵と暮らすと言って、男と住むつもりだったのか?」

尚登の言葉に、今度こそ落ちんばかりに史絵瑠の目は見開かされた。

「男があちこちの女んとこ転々としてるのを知っていて、自分もその場所を提供してやろうと?」

史絵瑠の目は激しい憎悪を持って尚登を睨みつけた。

「──なんであんたがそんなこと知って──」

誰に言っていない、たった一人の男に尽くしていることを。深い意味もなくその男が囁く「愛している」という言葉にすべてを捧げていることを。

「好きでやってんなら勝手にやれよで終わりなんだわ。陽葵を巻き込むなよ。陽葵がいい子なのは頑張ってるんじゃなくて、元からの性格なんだよ。てめえと一緒にすんなや」

尊大にいう尚登の態度が気に入らなかった、男にそんな態度を取られたことがないのだ。ましてやそれが陽葵の恋人などというものに怒りが増した、当の陽葵は尚登の隣で怯えた目で下目使いに見るばかりである。一対一で罵り合うなり殴り合うなりするならまだしも、こんな女はいつだって守られる──本当に──。

「目障りな女、あんたなんか大っ嫌い!」

水をかけて恥をかかせてやろうとコップを掴んだ、だがその手首を尚登が押さえつける、動きは封じられたがコップだけは弾かれるように史絵瑠の手を飛び出し音を立てて倒れた。
陽葵は水が零れてしまったという事ばかりに気を取られていた、どちらが先に動いたのかすら判らない、史絵瑠が負けじと左手を延ばしたことにも気づかなかった。危害を加えようとかぎ状に曲げられた指の先には長く尖った派手なネイルが光る、その手も尚登は手刀で叩き落とした。

()っ……!」

声を上げる間もなく、テーブルに落ちたその左手を尚登は勢いよく引き陽葵から離す。思い切り引かれた史絵瑠の体はバランスを崩しテーブルに倒れた。テーブルの上は水浸しだ、そこに乗ってしまった史絵瑠が濡れてしまうと陽葵はこの期に及んでも心配した、だが尚登が左手は史絵瑠の左の手首を固定したまま、史絵瑠の頭をしっかりと右手で押さえつけたことで事態を把握する。

「え……っ、あ……!」
「離しなさいよ!」

史絵瑠の声が響いた、その前から店内はざわめいている。

「あんた、何なのよ!」

その呪詛は尚登に向けられたものだ、確かにと陽葵は思う、尚登にこんな武闘派なイメージはなかったが。

「悪いな、ちょっと腕に覚えがあるだけだわ、女相手だからこれでも手加減してるぜ」

小さく舌なめずりまでして言う尚登が意外だった。

「離しなさいよ、馬鹿力!」
「お父さんに暴行されてるなんて嘘だな?」
「そうよ! そうすればお姉ちゃんは面白いようにダメージを食らうだろうし、言いなりにするのに簡単だろうと思っただけ!」
「だとよ、陽葵」

告白にほっとした、父の無実は証明されたのだ。

「痛い! 離して!」
「陽葵にもう近づかないと約束すれば離してやる」
「近づかないわよ! そんな女、こっちからお断り! 本当に大嫌い!」

素直に言えば尚登は史絵瑠を解放した。だが史絵瑠の言葉は陽葵の心に突き刺さる、いつからそんなに嫌われていたというのか──その答えは憤怒の顔で体を起こした史絵瑠から吐き出された。

「私もママもあんたが大嫌いだった! どこへ行ってもあんたを褒める言葉しか聞かないのが気に入らなかった!」

再婚し一緒に住むようになったと近所に挨拶に行けば「陽葵ちゃんはいい子だから大丈夫」と言われ、学校でも「陽葵さんとなら安心ね」と言われた。初めのうちはニコニコと肯定できたが、度重なれば腹が立つのは被害妄想か。

「どんだけ嫌がらせをしてあんたはどこまでも優等生で泣きも怒りもしなかった! だからママは恥をかかせようと九州のめっちゃ難しい学校を受験させたの! 失敗して落ち込んだところをネチネチいじめてやろうって言っていたのに、あっさり受かっちゃってさ! ご近所さんからも褒められてママはむしろ鼻が高かったみたいね! 今度は私も偏差値高い学校を受験させられてさ! 行きたくもない塾に週7で行かされて!」

それはむしろ羨ましいと陽葵は思ってしまう、自分は塾すら行かせてもらえず参考書すら買ってもらえず、まったくの独学で受験に臨んだのだ。立場が変われば感じ方も違うのだと痛感した。

「あんたが行ったとこより偏差値が上の学校で希望を出したら、講師にはあっさり無理って言われた私の恥ずかしさが判る!? なんとかミシェルに受かったはいいけど、今度は些細な持ち物すら格の違いを見せつけられて!」

お嬢様学校というのは間違いなかった、小さなポーチひとつ取っても周囲はブランド品を持っているのが当たり前だった。格の違いを見せつけられたのが生活が乱れた一番の理由か。

「私がどんなに惨めだったか、あんたには判んないでしょう!」

私だって陽葵は言いたかった。年に一度の三者面談に来ない両親、親の承認が必要な事柄も無視される、金だけは払ってくれていたが、完全に親に見捨てられた自分は惨めだった。幸い理解もあるいい先生たちに巡り合ったおかげで切り抜けられたのだ。

「あんたなんか──!」

涙目の陽葵をさらに追い込もうと息を吸い込んだ時、その陽葵を尚登が抱きしめるのが見えた──どうしてあんたばかりと唇を噛んだ時、店員が乾いたタオルを持ってやってきた。なぜそんなものをと思った時、初めて自分の体が濡れていることに気づいた。髪も服もだ、それを行った尚登の背を睨みつけ、自分を見てヒソヒソと話す周囲を睨みつけ、店員には結構だと言い放ち鞄を握り締めて店を飛び出した。
陽葵に嫌がらせのつもりの行動が完全に返り討ちにあってしまった、しかも公衆の面前で恥までかかされ──尚登とともども腹が立つ連中だと内心怒り狂う、衣服に沁みこむ水の冷たさも気にならないほどだった。

「大丈夫か?」

陽葵を覗き込み、髪を撫でながら聞いた。
陽葵は小さく何度も頷き大丈夫だと伝える。本心は平気ではない、史絵瑠に好かれてはいないことは判っていたが、はっきりと敵意を見せられたのは初めてだ。九州まで行かされた理由も初めて聞いた──衝撃は大きかった。再婚からまもなく嫌がらせは始まっていた、初めから嫌われていたのだ。自分がなにをしても取り返しはつかなかったのだろう。
ため息とともに涙が落ちた、尚登は陽葵をそっと抱き寄せた。

「今までよく頑張ったな」

尚登にしがみつき声を殺した、呼吸が乱れたのが原因だろうか、息苦しくなる──これは駄目だと思った時。

「陽葵」

耳の奥で尚登の優しい声が響く。

「俺の呼吸に合わせろ、吐いて」

しっかり抱きしめられているおかげで尚登の呼吸が判った、むしろそれしか感じられなかった。ゆっくり吐き、僅かに吸い──何度が繰り返すうちに生きた心地が戻る。落ち着いたのが判ったのか、店員が声をかけてくる、遠回りに退店を促された。

「ああ、すみません」

十分騒ぎを起こした自覚はある、尚登は素直に従った。

「彼女が頼んだものも、いただいて帰ります」

史絵瑠が頼んだサンドイッチは廃棄では申し訳ないと申し出たが、まだ作っていないから大丈夫だと断られてしまう。時間的にそんなことはないと思うが、早く帰って欲しいということだろう、まだクリームが残るパフェに後ろ髪を引かれながらも尚登は食い下がらず立ち上がった。

「陽葵、立てるか?」

陽葵は頷き立ち上がるがふらついた、すかさず尚登が支えれば周囲から小さな悲鳴が聞こえる、それは歓喜の悲鳴だ。陽葵はそんなことにも気づかず尚登の腕にすがった。頭がクラクラするのは過呼吸のせいなのだろうか。
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