弊社の副社長に口説かれています
「え、あの! 本当に、大丈夫ですから!」
「家に入るまで安心できません」

なんとも嬉しそうな尚登の声に楽しんでいるなと思った、だがここまで来てもらって文句も言えず、陽葵はその後を追いかけた。
駅から徒歩で数分、県民ホールと芸術劇場に挟まれた島にあるマンションが陽葵の住まいだ。

「ここです」

集合玄関を前に言えば、尚登も足を止めた。

「すごいとこに住んでるな」

11階建てのマンションを見上げて言う。驚いたのは立地だ、山下公園にも近いこの場所は横浜でも中心地になる、居住よりも商業地、観光地としての便がよさそうだ。
陽葵自身こんなところでとは思ったが、住まいを会社の近くから探していったらたまたま家賃もろもろとの兼ね合いが付いたのだ。

「はい、会社に近くていいです」

電車通勤はしているが十分徒歩圏である、季節がいい時は歩いて帰ることもできるのが最大の利点か。

「確かに、羨ましい」

尚登は都内が住まいだ。電車で一本で文句を言う距離ではないが、この場所からはみなとみらいの象徴的なビル、ランドマークタワーがしっかり見える、この距離は羨ましい。

「今日は本当にありがとうございました、ご迷惑とご心配をおかけしました」

陽葵は深々と頭を下げ礼を述べた。

「いいえ、顔色はよくなったようですが、無理はしないように」

言われてまた史絵瑠の顔を思い出しそうになったがそれを慌てて追い出し笑顔を作る。

「はい、ありがとうございます」
「独り暮らしですか? 何かあった時に頼れる人は」
「はい、独り暮らしですけど、大丈夫です。今までも何とかなっていましたし」

ここまでひどい過呼吸は初めてだが、激しい動悸などはこれまでにも経験はあり、特に何をしなくても時が解決してくれていた。

「そんな。それじゃ心配だ、よかったら俺の連絡先を」

スラックスの後ろポケットからスマートフォンを出す尚登に、陽葵は慌てて手を振り辞退する。

「そんな! 副社長のご連絡先などいただけません! 何かあれば救急車を呼びます!」

確かに、と尚登は納得するしかない。自分が駆けつけるよりよほど早く対処してくれるだろう。

「本当にありがとうございました、それでは失礼します」

言って踵を返し鞄から出した鍵をオートロックの錠に差し込み開錠する、開いた自動ドアを抜けようとすると、そこにはまだ尚登が立っていた。

「……あの?」
「心配ですから完全に入るまで見てます」

笑顔の尚登に陽葵はぺこりと頭を下げその気持ちに従った、相当心配をかけたのだろう、ならば早く帰ってなどとは言えるはずもない。
陽葵は視線を感じながら奥へと進んだ。

その後ろ姿を尚登はじっと見ていた、セミロングの髪が揺れる背中を撫でた感触はまだ手に残っている。小さな薄い背中だった、具合の悪さも相まってなんともはかなく感じた。

(何度も過呼吸に、ねえ……)

陽葵が足を止め壁に手を伸ばした、そこにエレベーターがあるのだと判った。視線を上げた横顔を見つめてしまう。
照明のせいか、まだ具合は悪そうに見え本当に大丈夫かと真剣に思った。
陽葵の控えめでいじらしい態度にそそられた、今まで、特にここ最近は周囲にいなかったタイプだ。連絡先を交換しようと言ったのは本当に心配だったからだが、それを嬉々として行う陽葵でないことが好印象だった。ここ最近出会った女性ならば積極的に交換しただろう、濃い化粧と香水に派手な衣装でどれも同じに見えてしまう女ばかりで、まるでこの世に男が尚登ひとりになったかのように入れ込むことに恐怖すら感じたが、久々に女性らしい女性に会ったような気がした。

(ふむ。経理の藤田さんねぇ)

愛らしい横顔に見入った。
陽葵は尚登の視線を感じていた、恥ずかしさに隠れたくてもそんな場所はない。奥へ行けば階段もあるが住まいは7階だ、階段で上がるには億劫すぎる。とりあえず2階に上がってエレベーターを使えばいいかなどと意地の悪い計画を立てている間に、3階にあったエレベーターが到着した。
ほっとしながら、乗り込む前に尚登に向き直り再度頭を下げる、尚登が笑顔で手を振ってくれるのが見え、改めて尚登の優しさが心にしみた。

見目麗しく役職もあり人気が高い尚登と30分ほどとはいえ一緒に過ごせたことがなんとも誇らしく感じる、助けられたことも含め、その優しさを皆に自慢したいがそんなことはしないほうがいいのだろう、自分一人の心の内に秘めておくべきだ。

(副社長みたいに素敵な人は、どんな人を好きになるんだろう)

何度も見合いを断っているということは理想が高いのだろうか、自分には関係ないことが気になった。そもそも会長である祖父にまで結婚しろと言われてうっとうしいのだろう、赤の他人が気にすることではない。きっと誰もが羨むような素敵な女性と出会い、次代の末吉商事を担う子を設け、一生幸せに暮らすことだろう。

(私なんか、もう、目が合うこともない)

そんな自虐的なことを思いながら家に着けば一気に疲れが出た、食事を摂る気にもなれず、さっさと風呂を済ませ早々に眠りにつくことにする。
時に史絵瑠のことを思い出しそうになっても尚登とのことを思い出し紛らわせることができた、本当にありがたい出会いだった。
尚登がかけてくれた言葉の数々を思い出すことで幸せな気持ちになれる、幸運な出会いに感謝しつつ深い眠りにつけた。
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