愛を奏でるワルツ~ピアニストは運命の相手を手放さない~

第一章 ウィーンでの出逢い



小さなベッドから身体を起こし、すぐ真横にあるベージュのカーテンを開け小さな窓のレバーを動かす。

「わぁ」

と、外を見て思わず声が漏れた。

真下には石畳、リュックを背負った子供達や、スーツ姿の男性が足早に歩いている。
先に見えるのは緑豊かな公園。
もっと先には、背の高いギザギザしたような塔の尖端が見える。
この街のシンボルともいえる『シュテファン大聖堂』だ。

「本当にここ、ウィーンなんだ」

噛みしめるように景色を眺めながら呟いた。
空港に着いたのは夜。
それから電車に乗り知らない街で緊張していた私は周囲を見る余裕など無く、中心地に近いビジネスホテルに無事チェックインして泥のように眠ってしまった。

私が今いる場所はオーストリアの首都、ウィーン。
音楽の都とも呼ばれる場所だ。
ウィーンの小さなホテルの窓からは、優しい風が入ってくる。
香りすら嗅いだことが無いようだ。
私はうっとりと異国の地を眺めた。



ホテルを朝の十時頃出て、斜めがけにした鞄から観光ガイドブックを取り出す。
単行本サイズの有名な世界旅行のガイドブックには、付箋が沢山貼ってある。
私が行きたい場所、したいことなどのページに容赦なく貼ったらこの有様だ。
まずは旧市街、一つ目のお目当てである先ほどホテルの窓から見えたシュテファン大聖堂へ向かう。
私の出で立ちは旅行中動きやすさ重視で、長袖カットソーにジーンズ。
腰には寒さ対策でパーカーを結んでいる。
髪の毛は肩より下の長さなので、邪魔にならないようポニーテールにした。

ガイドブックの地図を見ながら、右がこのお店だから、左がこの通りでと確認していく。
この街は、路地に通りの名前が割と書いてあるのはありがたい。
大通りには車と路面電車(トラム)が走っている。
石畳の歩道を歩きながら目の前に出てきた大きな建物がオペラ座。
出来ればオペラ座の中にも入ってみたいが、チケットを手に入れるのはかなり厳しいだろう。
オペラ座前周辺はメイン通りともあって、観光客が多い。
人にぶつかりそうになりながら、教会のある道を進もうとした。

「スミマセン」

後ろから聞こえてきた片言の言葉。
一人でいる私にでは無いだろうと、気にせずそのまま進む。

「スミマセンスミマセン」

まだ十代くらいの女の子が私の前に回り込んできて、驚き足を止める。

「ココドコデスカ」

片言の日本語で何か紙を指さすが、なぜ私に聞いてきたかわからない。
相手は外国人(いや私がここでは外国人だけど)、それも子供。
困ったような顔で私に迫ってくる。

「ノーノー」
「スミマセンスミマセン」

私が手を振って断っても、女の子はそう言いながら泣きそうな顔をしている。
もしかして本当に何か大変なのだろうか。
地図らしき彼女の持つ紙を覗き込もうとすると、後ろに引っ張られた。

私の服から、背中越しに感じる誰かの体温。
驚いて上を見上げると、見知らぬ男性が低い声で前を向き何かを言った。
おそらくドイツ語だ。
自分の状況に混乱しながら前を向けば、そこに女の子はいなかった。

「君、財布をすられるところだったんだぞ」

呆れたような声が真上からした。
私の腰に回っていた手が離れ、私は身体をひねって流ちょうな日本を話すとても背の高い彼を見上げる。

(なんて整った顔なの)

最初に思ったのはそれだ。
くっきりとした目鼻立ち、長いまつげ。
焦げ茶色の髪の毛は少し長めで、ふわっと風が通る度に揺れる。
そしてその目に惹きつけられた。
意志の強い切れ長の目。
ただその瞳は濃い青のサファイアのようで、静かに私を見下ろしていた。
年の頃は三十くらいで日本人にも見えるが、この顔立ちだとミックスだろうか。

パリッとした白いシャツに細身のジーンズ。
ラフな服装がこれまた彼の手足の長さを強調させている。
身長はここの人達よりも高そうなのに、顔はとても小さい。
そして声までいい声をしているなんて、どんな生き物なのだろうか。
世の中は非情だ、同じ人間なのにこんな二次元の王子様みたいな人がいるのだから。

「君」
「はい!」

じっと彼を見ていてトリップしていた私は、彼が眉に皺を寄せて私を見ていることに気付いた。
そうだ、助けて貰ったんだった。まずはお礼を言わなければ。

「すみません、助けていただいて」
「日本人だよな、一人で観光しているのか?」
「はい」

日本語で既に話しているのに、何故か再確認されてしまった。
だが彼は私を上から下までジロジロと見て、

「この辺は観光客がスリに狙われるエリアでも有名だ。
それも君のように一人でいる日本人は、鴨が葱を背負ってくるようなものだぞ。
さっきだってろくにドイツ語も出来ないのに手伝おうとしてたしな」

最後の一言にカチンと来る。
すみませんでしたね、英語もドイツ語も出来ませんよ!
だが彼が助けてくれなければ、いくらパスポートとか貴重品をホテルに置いてきたとはいえ大ダメージを受けていただろう。
スリには十分気をつけるようガイドブックにも書いてあって私も用心していたけれど、あんな方法があるなんて知らなかった。

「どこに行くんだ」

彼の声は平坦で怒られているのかと思ったが、心配してくれているのだろうか。
素直に私はシュテファン大聖堂に向かうと言うと、彼は長い手を伸ばす。
そして指をさした。

「そこに見える通りを真っ直ぐに行け。
しばらく歩くが教会の建物は大きいから、すぐにわかる」

そう言って、くるりと背を向け私から離れていった。
私はびっくりして、

「ありがとうございます!!」

大きな声でいうと、彼は振り返ること無く右手を少しだけあげた。

冷たそうでぶっきらぼうに見えたけれど、最後まで私がどこに向かうのかやはり気に掛けてくれたんだ。
日本人離れしたルックスだったけれど、あそこまでネイティブに日本語を話すのならここに住む日本人なのだろうか。

「あんなどっかの王子様みたいな人に助けられたんだから、幸先良いと思わなきゃね」

しかし、出来ればもっと話してみたかった。
あの声と、あの目に見つめられながら。
旅行先で素敵な男性との出逢い恋に落ちる、そんなのはドラマの中だけだろう。
追いかければ良かっただろうかと後悔しつつ、いや、これだけしてもらって贅沢だと思い直しシュテファン大聖堂へ向かった。


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