私の嫌いな赤い月が美しいと、あなたは言う



「ご機嫌麗しゅうございます。貴嗣様」

私は深々と頭を下げた。
さっさと夜会に行って欲しいのに、貴嗣様は気さくに私に声をかけてくる。
微笑まれると二十代半ばというより、少年のように幼げに見えた。

(懐かしい……?)

不思議な感覚が湧き上がってきた。

私はもっとお話ししたいような、逃げ出したいような真逆の思いに囚われそうになった。

「あなたもこの夜会に?」
「いえ、私は失礼するところでございます」

淑女として乱れた心は顔に出さずに、私は答える。

「おや、そうですか? 伊集院家の馬車が見あたりませんが」

「それは……」

伊集院家の恥をさらす様だし、私はなんて答えようか迷ってしまった。

言葉を濁した私と、困った顔をしている馬車係の顔を見比べた貴嗣様はポンと手を叩いた。

「お困りのようだから、この馬車をお使いなさい。伊集院家にあなたを送り届けてからここに帰ってきた方が、待ち時間が短くて使用人たちも喜ぶでしょう」

簡単なことのように貴嗣様はおっしゃるが、ホイホイとお受けしていい話ではない。
私は貴嗣様とは何のかかわりもない娘なのだ。

「でも、このような高貴な馬車をお借りしては叱られてしまいます」

「お気になさらずに。ほかならぬ、九鬼の婚約者様ではないか。遠慮なく使いなさい」

あまり遠慮するのも失礼かと思い、貴嗣様の言葉に甘えることにした。

「ありがとうございます」

上品に礼をして、馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出すのを見届けた貴嗣様は、会場の方へ歩いていく。

馬車の窓からその後姿を見送りながら、私は貴嗣様の言葉からいくつか新たな情報を得ていた。

(婚約者の九鬼様は、鷺宮貴嗣様と親しい関係……)

そういえば、九鬼様は今夜は皇女様と出席していると言っていた。
たとえ御身分のある方とはいえ、婚約者のいる男性と夜会に出るなんて皇女様も人が悪い。

(九鬼様だって皇女様の方がいいだろうに、なぜ私と婚約しているのだろう)

またひとつ新たな疑問が増えた。
伊集院家の中でこんな扱いを受けているというのに、海運業で名高い九鬼公爵家の御曹司と婚約しているのは解せない。
鷺宮貴嗣様の名前や立場などはすぐに思い出せたというのに、どうしても『婚約者』についてだけ記憶が曖昧だ。

(あまり交流がなかったのかしら)

鷺宮家の馬車の乗り心地は格別で、小高い丘の上にある鷹司家の屋敷から街に帰るまでさして揺れることもなく、伊集院家まではあっという間だった。

暗闇の中でも煌々と灯りが灯されている伊集院家。
自分の家がお金持ちだというのは、確認できた。

帝都の中心から少し離れた鷹司家からここまでに、夜目にも無駄に明るい屋敷などなかったからだ。

それほどの財力がある家の令嬢だというのに、着ているドレスはなんて安っぽいのだろう。

今世の自分は、いったいどんな星のもとに生まれついてしまったのか。
もう二度と、湖に身を投げるような生き方だけはしたくなかった。







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