思い出は春風に、決意は胸に秘めて

春風の中での邂逅

 ふわりと春風が頬を撫でた。新年度に入ったばかりのこの時期は、その風が冷たいものであったとしても、どこか柔らかな感じがする。

「あ! うそぉ~、信じられない!」

 オフィスビル街の歩道の上で、聞き覚えのある女性の声がした。
 つられて後ろを振り返れば、副社長の瑞樹(みずき)が少し離れた位置にいる。さっきまで私の隣にいたはずなのに、いつの間に! である。
 その瑞樹の隣には彼の婚約者の美沙希みさきがいて、今まさにふたりで楽しそうに会話していた。
 業務中に偶然、副社長は自分の婚約者と鉢合わせたわけなのだが、就業中にもかかわらず美沙希は挨拶だけで終わらなかった。副社長(自分のフィアンセ)を引き留めて離さない。
 こんな婚約者のわがままに特に困る様子もなく、瑞樹は真摯に対応する。
 その会話の端々が、意地悪な春風に乗って私の耳にまで届いてきた。

「式では、このフローリストにブーケをお願いしたいの。ここのお花を持って、ヴァージンロードを歩きたいわ」

 美沙希が指さす先にはフローリスト雑誌でお馴染みの花屋がある。どうやら彼女は下見にきていたらしい。
 自分の花嫁を飾るブーケのことを相談されて、仕事中とはいえ、婚約者を無下にすることはできない。結婚式の相談はデリケートな案件だから、対応を間違えるとのちのちの夫婦関係に遺憾を残すもの。何かと気配り上手の副社長はそのあたりをよくわかっていて、丁寧にきいていた。 

「そこは美沙希さんの好きにして。式の主役は新郎でなくて新婦だから」
「ありがとう、瑞樹さん。じゃあ、このまま予約入れちゃうわね」

 なにも仕事中に、プライベートな打ち合わせをすることはないだろう。
 少し離れた位置で待機する秘書の私は、黙ってその様子をみていた。
 私が五年間仕えた副社長ボスは半年後に結婚をする、この美沙希と。
 この結婚が決まったのは、つい三か月前。献身的に尽くす美沙希の姿に癒しを感じ、彼女を手放したくないと瑞樹は結婚を申し込んだのだった。

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