思い出は春風に、決意は胸に秘めて

雨の転落事故


 ***


 献身的に尽くす美沙希の姿――ふたりの馴れ初めは、ちょうど一年前のこと。外出先の外階段で足を踏み外した瑞樹を、通りすがりの美沙希が偶然、救護したというもの。
 その日は晴れの予報であった。しかし春先の大きな寒暖差は、気まぐれな雨を降らせた。
 突然の雨で濡れた路面に瑞樹は足を取られ、階段上から派手に転倒した。打ちどころ悪く、瑞樹の体の下に血の海ができる。それをみた周りの通行人たちは、驚き、硬直した。
 そんなざわめくだけの群衆をかき分けて、美沙希は瑞樹に近づいた。彼の止血をし、救急車を呼び、そのまま同乗して病院まで付き添ったのだった。
 病院の検査では、頭部に出血は認めるものの脳波などに異常なし。念のために、瑞樹は経過観測入院となった。
 この事故のことを、私は瑞樹の父である会長から知らされたのだった。

 いざ会長から連絡を受けて病院に駆けつければ、面会謝絶。二日後、見舞いに訪れば、瑞樹は記憶を一部、失っていた。

――どちら様でしょうか?

 私の顔をみて発した彼の第一声は、それだった。
 四年間、私は秘書として彼の元で働いていたのだが、何ひとつ覚えていなかった。

――ふ、副社長。じ、事故当日のスケジュールは、覚えていらっしゃいますか?
――事故当日のこと?
――はい。昼からご挨拶に伺う予定でした。
――挨拶? どこへ?

 私の質問に対して、瑞樹は不思議そうに、また一生懸命に思案する。しかし、思い出せない。
 瑞樹は記憶の混濁に戸惑いながらも、私が蒼白していくのに気がついた。私を社の重要な関係者だと察し、ベッドの上で申し訳ない表情になって、こう尋ねてきた。

――その挨拶は、大事なものだったのだろうか?
――いえ、問題ないと思います。先方から連絡が入りまして、当日は向かう途中で事故に遭ってしまったとお伝えしたら、無断キャンセルになったことに納得されていました。お大事にということです。

 転倒から今までの執務室でのやり取りを告げれば、瑞樹は目を丸くして礼をいった。

――あなたが、対応してくれたんだ。ありがとうございます。
――いえ、私はあなたの秘書ですから。
――秘書?
――はい。でも私は原則、執務室前室待機なので、四六時中、副社長とご一緒というわけではありません。副社長の頭は、いつも商談のことで一杯だったはずです。

 そんなふうにいって、秘書の存在を消した。私のことを覚えていなかったとしても無理はないのだと、暗に告げた。
 普段の副社長は商談相手はもちろん、副社長室のスタッフや関連部署、社屋ですれ違う社員にも気を配る。秘書である私についても、例外ではなかった。
 瑞樹は気遣いの出来過ぎる副社長だ。そんな瑞樹が仕事の上では一番接する機会の多い秘書のことを忘れてしまったとわかれば、きっと必要以上に気に病む。容易に想像できた。
 だから、そんなふうにいって私は秘書の自分の存在を消したのだった。

――あなたの顔になんとなく見覚えはあるのですが、はっきりと認識できません。秘書として、僕を支えてくれていたはずなのに……すみません、お名前を教えていただけますか?
――副社長、お気になさらないでください。私は、松田と申します。入院中は、会長から決裁をいただきます。普段からハードワーキングな副社長ですので、いい機会と考えて、ごゆっくり療養なさってください。
 これは、会長からの指示である。瑞樹の父である会長は、転倒事故の連絡と合わせてそうスケジュール調整しろと私に命令したのだった。
 脳波には何の乱れもなく、出血の割には捻挫と擦り傷だけですんだ瑞樹だった。なのに、なぜか記憶が一部、消えていた。
 どうしてそんなことになってしまったのだろうか?
 転倒によるショックと普段からの仕事のストレスで、一時的に物忘れして現実逃避をしているのかもしれない。しばらくすれば記憶は戻るだろう、そう医師は診断した。
 瑞樹は一部記憶を失っていたが、現在進めているプロジェクトや通常業務ことは何も忘れていなかった。
 悔しいかな、忘れてしまったのはここ一年間の私とのやり取りと、事故当日のスケジュールだけである。

 しばらくすれば記憶は戻る――そう医師は診断したが、消えた記憶はずっと消えたままであった。
 業務の上では何も問題なかったから、転倒事故直後こそ大騒ぎとなったが、すぐに事故前の日常が戻った。
 そう、出勤すればハードなスケジュールをこなし、タフな決断を下す瑞樹がいる。
 秘書の私は、事故前と同じように彼を補佐業務に努めた。瑞樹が転倒事故当日の記憶を、事故直前の一年間の私とのやり取りのことを、思い出すことを秘かに期待しながら。

 依然、現実は私の望みどおりにはならず、瑞樹は記憶をなくしたままであった。
 そんな上司と部下の時間を過ごして半年たった頃だろうか、瑞樹が告げたのだった。

――年齢が年齢であれば、美沙希さんと結婚しようと思うのだが……松田さん、いまどき自分の妻に専業主婦を希望するいうのは、どう思う?

 結婚に対する一般的な女性の意識について、瑞樹は相談したのだった。
 私の中の、一抹の希望が消えた瞬間だった。

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