思い出は春風に、決意は胸に秘めて

副社長と秘書


 ***


 ふわりと春風が頬を撫でた。少し息苦しかったから窓を開けていたのだが、その隙間から入ってきた夜風だった。
 入ってきたのは春風だけではない。ひらりと一枚、薄ピンクの花びらも舞い込んできた。

「世間はお花見の季節よね」

 年度初めだとわかっていても、真の意味で理解していなかったようだ。今まで以上にストイックかつ自己我慢を強いたこの一年の秘書業務で、季節を感じる余裕もなくしていた。
 どこからやってきた花びらだろうか?
 “瑞樹”と明るく呼びかける美沙希の声が、脳裏に再現した。秘書であるがゆえに、“瑞樹さん”と口にできてもあんなふうに私はいえなかった。
 簡単に風に流されてしまうその淡い色の花びらに、自分の気弱な姿勢を重ね合わせてしまう。

「美沙希さん、積極的だもん。社長夫人としてやっていくには、あのくらいの強気でちょうどいいかもしれない」

 結果としては、事故現場に居合わせた美沙希がわかりやすいパフォーマンスを繰り広げて、瑞樹の心を掴んだことになる。自分にはない押しの強さで、幸運を手繰り寄せたといっても過言でない。
 
 気遣いの出来る社長と、その社長にはっぱをかける妻。これは会社経営者として、最強のふたりではないか?
 自分の中の瑞樹と美沙希の印象は、もうそれに変わっていた。

「あ、終わっちゃってた!」

 気がつけば、ビジネスニュースの録画は終わっていた。今のテレビ画面には、まったく関係のないバラエティー番組が映し出されている。回想のせいで、放送内容など何も頭に入っていない。
 いまの番組だって腹の底から笑えるような気分でないので、さっさと消す。
 明日の仕事はどうだったかしらと思いながら、私は退職願を取り出した。

 これは、何回も書いては消し、書いては消しをして、やっと書き上げたもの。
 書き上げれば書き上げたで、なかなか決心がつかず、ずっと引き出しの中に仕舞ってあった。まさに“迷いの連続”の象徴だ。
 しかし、それももうおしまい。今日のウェディング・ブーケの話で、悟る。
 もう瑞樹が私の隣に立つことはないのだ、未来永劫に。
 こうなれば、感情的になりすぎてトラブルになる前に、私が消えるのみである。

 仕事鞄に、えいっ! と、退職願を突っ込んだ。
 いざ、突っ込んでしまえば、肩の力が抜けた。思っていたほどではなかった。
 そこに、ふわりと春風が、また頬を撫でた。桜の花びらを運んだその風は夜の冷気を含んでいても、なぜか柔らかな感じがしたのだった。


 †††


 そうして、三琴は新たな決意を胸に秘めて、眠りに落ちた。

 三琴は知らない。瑞樹は、結婚を決めたというのに、いまひとつ浮かれ気分でないことを。
 三琴は知らない。瑞樹は、同じ“み”で始まる名前を口にして違和感を得ていることを。しかもその違和感が日ごとに大きくなっているなんてこと、想像もしない。

 そして、三琴は気がついていない。瑞樹は、美沙希さんと呼んでも美沙希と呼ばないことを。三琴と呼んでも三琴さんと呼ばないことを。
 瑞樹への呼びかけが美沙希と三琴が違うのと同様に、瑞樹からの呼びかけが違うのである。

 そう、三琴は知らないのである。瑞樹が、自分の秘書は未来永劫、自分のそばで業務をこなしていくものだと信じ切っていることを。
 だから、あれだけ注意してあったのに翌日からトラブルに巻き込まれることになるなんて、決意した夜の段階では一切、三琴は知らないのであった。
 
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