離縁予定の捨てられ令嬢ですが、 なぜか次期公爵様の溺愛が始まりました
プロローグ
 カツン、と。一歩前に踏み出した足音が妙に大きく聞こえた。
 この真っ白な教会にはどんな音もよく響く。だからフィオナは、絹の擦れる音すら立てないようにゆっくりと顔を上げる。
 ベール越しに目の前の男性と目が合った。その菫色の瞳。なにもかも見透かすかのごとく冷然とした瞳に見つめられると、緊張で背筋が伸びる心地だ。
 夜空の色を溶かしたような黒い髪は艶やかで、すっと通った鼻梁や薄い唇、整いすぎた顔立ちは、まるで人間のものではないようにすら思える。
 光沢のある白いタキシードを身に纏った彼は、静かにその場に立ち尽くしている。晴れやかな言祝ぎの場であるはずなのに、目の前の男性の表情は妙に冷たく感じた。
 もちろん、彼の笑顔などただの一度も見たことはなかった。それでも自分の結婚式ですら、にこりともしないものなのかとフィオナは思う。
 分厚い硝子でできた大きな窓からは燦々と光が降り注いでいる。
 その光に照らされ、フィオナの身につけている純白のドレスが淡くきらめいた。荘厳な雰囲気に包まれ、フィオナは緊張でごくりと唾を飲み込む。
 太陽神を抱く月の女神の像が、眩いほどの光を背にフィオナたちを見下ろしている。この誓いの場を見守るのは、そんな物言わぬ像と少数の聖職者のみだ。
 厳かと言えばそれまでなのだが。
(なんだか、ちょっと寂しい)
 誰ひとりとして参列者のいない結婚式。フィオナはともかく、次期公爵と目される彼――セドリック・ウォルフォードの結婚式とは思えないほどの寂しさである。
 でも、それも仕方がないことなのだろう。
 所詮は仮初めの婚姻。これはあくまで便宜上の結婚式でしかないのだから。
 むしろ、形だけでもこうして式を執り行えること自体が奇跡なのかもしれない。フィオナにとっては、ただ虚しく感じられるものでしかないけれども。
「では、指輪の交換を――」
 神父の言葉に、若い聖職者が指輪の置かれた台座を運んでくる。
 台座に置かれたたったひとつ(・・・・・・)の白金の指輪には、菫色の小さな石がはめ込んである。その指輪を見てため息をつきそうになるのを、フィオナはぐっとこらえた。
(これって交換にはならないよね)
 同じように感じたのはフィオナだけではないらしい。視界の端で、神父がセドリックに向けて物言いたげな視線を送っている。
 セドリックはそれに気付いていながらも黙殺しているだけだ。
 だってセドリックには新しい結婚指輪など不要だから。セドリックの左手の薬指には、すでに古びた指輪がはめられている。その指輪を外す気なんて毛頭ないのだろう。
(大切な方がいらっしゃると、噂もあるけれど)
 彼とは結婚できない身分の誰か。セドリックにはそのような、表には出られない相手がいるのだと世間では噂されている。それでも、彼の妻になるのはフィオナなのだ。
(そうよ。これは仮初めの婚姻だもの)
 よく似せて作ってあるけれども別物だ。
 でも、指輪が揃いでないことすら、今の自分たちには似つかわしい気がした。
 彼には彼なりの、指輪を外さない理由がある。だから彼がフィオナに期待していないように、フィオナだって彼に期待などしない。これは恋愛感情を伴わない、いわば期間限定の契約婚だ。揃いでない指輪ならばいつ外したって後悔などない。
 フィオナはそっとグローブを外した。
 あかぎれだらけでボロボロの手。いまだに令嬢らしからぬこの手を人に見せるのには抵抗がある。けれども、フィオナは覚悟を決めて前に差し出した。
 セドリックは恭しくその手を取りながら、フィオナに言い聞かせる。
「君を愛するつもりはない。だが、これも互いの益のためだ」
 まさか神の前で堂々と愛を否定する男がいるだなんて。
 乾いた笑いがこぼれそうになるのをこらえて、そっと息を吐く。
 やがて、菫色の石がついた白金の指輪がフィオナの薬指にはめられたのだった。
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