離縁予定の捨てられ令嬢ですが、 なぜか次期公爵様の溺愛が始まりました
第一章 仮初めの妻になりました
「――お姉さま、わかっているのかしら? これはひどい裏切りではなくて?」
 悪魔の微笑みだと思った。
 アンティークの家具が並ぶ室内で、若い女がこちらを見下ろしている。肩を震わせて嘆きながらも、その瞳の奥底には楽しくて仕方がないという嘲笑の色が浮かんでいた。
 フィオナは冷たい床に這いつくばりながら、その女を睨みつける。相手は自分と年が近い、一応家族とも言える立場の女なのに、どうしてこうも違ってしまったのだろう。
 ぐいと床に押しつけられた頬が痛い。男の使用人が数人がかりでフィオナの体を押さえつけているからだ。彼らは一切の躊躇なく、フィオナの細い手足を強く掴む。痛みに喘ぎながら、フィオナは自分を見下ろす人々に目を向けた。
 フィオナ。本名はフィオナ・レリングという。
 十九歳という年頃の娘で、一応、目の前の女と同じく貴族の令嬢である。けれども、今のフィオナを見て貴族だと思う人間はいないだろう。
 まともな食事すら与えられず、その体は痩せこけているし、地味な茶色い髪は使用人たちに掴まれ、ぐしゃぐしゃに乱れている。寒い冬のさなか、毎日のように冷たい水仕事をしている手は手袋で隠しているものの、実際はあかぎれだらけだ。
 少しでも暖を取るために、厚みだけを重視したワンピースはごわごわで着心地が悪く、ストールも使い古されてほつれている。繕い続けてだましだまし着ているそれらの服は、召使いでも身につけないような襤褸だ。
 ただ、意思の強い若草色の瞳は、目の前の者たちをしっかりと睨みつけていた。
 フィオナはリンディスタ王国レリング領を治めるレリング伯爵家の、前当主のひとり娘であった。レリング領は王都に隣接しており、王都と東部を繋ぐ交通の要所だ。領土こそ広くないものの、それなりに栄えている。大きな特徴はないが、穏やかな気候に恵まれた土地である。
 そんなレリング伯爵家前当主の娘フィオナが、このような襤褸を纏い、ひもじい生活をしているのには理由があった。
 このレリング伯爵家の主が、今は代わってしまったから。目の前の女の隣に並ぶ男――現レリング伯爵ナサニエル・レリング。つまりフィオナの叔父によって。
「ええい、なんという反抗的な目をしているのだ!」
 ナサニエルはクリーム色の髪を後ろに撫でつけた赤目の男だった。
 亡き父によく似た顔立ちだが、おっとりとした雰囲気の父とは異なり、フィオナに対してはいつも厳しい。今も怒りを隠そうともせず、フィオナを怒鳴りつけるだけだ。
「このようなものを隠れて売っておったとはな! 馬鹿なことをしてっ!」
「返してくださいっ」
 フィオナは叫んだ。今、ナサニエルが手にしている刺繍の入った布の束。それらはフィオナがこつこつと縫ってきたものばかりだったから。
 ――すべてはこの家を出るために。
 八年前、両親が馬車の事故で亡くなり、父方の叔父ナサニエルがフィオナの後見となった。
 ナサニエルはフィオナの保護者兼レリング伯爵家当主代理という形で、フィオナが成人するまでの間、レリング伯爵家を支えてくれるはずだった。
 しかし、その関係がうまくいっていたのは半年足らず。
 ナサニエルはフィオナにいい顔をしながら、周囲の環境を整えた。そして無知だったフィオナをだまし、この家を乗っ取ったのだ。
 気が付いた頃にはフィオナはすべてを失っていた。
 財産も、両親の形見も、屋敷も、領地も。
 フィオナは自分の部屋すら奪われ、離れの物置に押し込められた。
 ただ、フィオナの身分だけは残しておいた方が利用価値があると判断されたのだろう。だから貴族の娘であるという身分だけが、なんとか手元に残っている。
 いずれはどこかの家の後妻に入れられるか、売り飛ばされるか。どのみち、いいように利用されて終わりだと思っていたけれど――。
(待っているだけのつもりなんてない。わたしは、この家を出たいの!)
 ずっと召使いのようにこき使われてきたけれど、フィオナはへこたれなかった。
 両親は心根が優しく、領民にも慕われていた。だから領民は、フィオナのことも大層心配してくれた。そこから縁ができ、刺繍を売ることに繋がった。
 フィオナは刺繍がいっとう得意だ。ゆえに、懇意の商人がフィオナの作品をこっそり買い取ってくれるようになった。もちろん、ナサニエルたちには見つからないように。
 お金を貯めていつかこの家を出ていく。それがフィオナの夢であり、目標だった。
 貴族などという余計な身分を捨てて、庶民の針子として生きる。だから遠い街まで移動する旅費としばらくの生活費、それを手に入れたかっただけなのだ。
「お姉さまったら、なんて卑しいのかしら。わたくし、もう恥ずかしくって」
 目の前の女が大袈裟に嘆いた。彼女の名前はエミリー・レリング。フィオナを虐げるナサニエルの娘――つまり、フィオナの従妹である。
 蜂蜜を溶かしたような華やかな金髪はふわふわと柔らかく、小動物を思わせる華奢な体には、淡い色のドレスがよく似合う。ふたつ年下である彼女は、フィオナをお姉さまと呼びながらも、甘ったるいピンクの瞳を意地悪に歪ませた。
「お姉さまが、まさかご自分の刺繍を平民に売っていただなんて!」
 ナサニエルが手にしている布の束。それはどれもこれも、懇意の商人に卸したばかりの刺繍入りの小物だった。
「わたくし、お姉さまのこと大好きなのにひどいわ。どうしてこんな仕打ちをなさったの?」
 悲しみにくれる彼女を支えるように、ナサニエルが肩を抱く。ナサニエルは不機嫌さを隠そうともせず、フィオナをきつく睨みつけた。
「このレリング伯爵家の恥晒しめ! お前のせいで、エミリーに妙な噂が流れることとなったのだぞ! わかっているのか!?」  
 どんっ!とナサニエルがテーブルに手を打ちつけ、叱責する。その声にびくりと体が震えるも、フィオナは目を逸らさなかった。
(恥じることなんて、なにもしていない)
 自分のためのお金を、自分で稼いだだけだ。
(むしろ、噂の元凶はあなたたちにあるのに)
 幼い頃から腕を磨き続けたフィオナの刺繍は、誰が見ても見事なものだった。ナサニエル一家も目をつけるほどに。
 彼らはフィオナの刺したものを取り上げ、エミリーの作品と偽って社交界に持ち出したのだ。エミリーも、それがさも自分の手柄であるように嘘をつき、刺繍上手の令嬢として称賛を浴びていた。
 今では、エミリーの刺繍は彼女の優しい心が滲んだ癒やしを与えるアイテムとして評判だ。社交界では、彼女の作品を手に入れることが一種のステータスになっているのだとか。
 ゆえに、彼らはフィオナに強引に刺繍をさせて、次々と取り上げていた。
 だからフィオナは、日中はエミリーたちのために手を動かしつつ、皆が寝静まってから自分のために商品を製作するという二重の生活を送るしかなかった。
 けれどもその生活ももう終わり。それもこれも、フィオナの製作する美しい意匠が、人々の印象に強く残ってしまったせいだ。
 商人の手により都で売りに出されていた商品と、エミリーが貴族社会で利用していたもの。ふたつの刺繍が、同一の人物によって施されたものだと噂が立つほどに。
「エミリーが平民に刺繍を売りさばいている」やら「優秀な針子の作品を自分のものだと偽っているのでは?」という様々な憶測が貴族の間で飛び交っているらしい。
(でも、実際にその通りじゃない)
 噂の一部は真実だ。
 自業自得もいいところなのに、エミリーたちの怒りはなぜかフィオナに向けられた。
「レリング伯爵家の名を傷つけるなど、なんという娘だ! 亡き兄上も天国で嘆いているはずだ!」
 大切な父を引き合いに出されて、フィオナの心臓が軋んだ。
「まったく。欲に目が眩んだ卑しい娘め! お前の刺繍だけは価値を認めてやっていたのに、自らそれを貶めるような真似をしおって」
 吐き捨てるように言いながら、ナサニエルは後ろに控えていた使用人を呼びつける。その使用人が持つ木箱を見た時、フィオナの頭に嫌な考えがよぎった。
 そして、その予想は正しかったとすぐに思い知らされる。
「それはだめ!」
 気が付けばフィオナは叫んでいた。木箱の中に入っていた見覚えのある布袋。離れの部屋の奥に隠していたはずのそれは、どう見てもフィオナのものだったからだ。
「やめて!」
 そこには、両親を失った後、こつこつと貯めてきたお金が入っているのだ。
「どうして!」
 フィオナの悲痛な叫びが部屋に響きわたるも、ナサニエルは表情を歪めるだけ。にたにたと笑いながら、布袋の紐を楽しそうに解いていく。
「私はお前の保護者だからな。お前が不当に集めていたものを確かめる義務がある。そうだろう?」
「不当などではありません! 返して!!」
 そう手を伸ばすが、大勢の使用人たちに取り押さえられる。
 ギリギリと力を込められ、その痛さに喘ぎながらも、フィオナは必死で主張した。
「だめです! それは! わたしの!!」
 フィオナの叫びは届かない。
「ああ――なんだ、こんなものか」
 袋の中身を確かめたナサニエルは、わざとらしく息をついた。
「――心底がっかりしたよ、フィオナ」
 その、暗くて恐ろしい声。ジャラジャラジャラ!と大きな音が部屋中に響きわたった。袋の中身が近くのテーブルの上にぶちまけられたのだ。
 大きな音を立てながら、何枚もの銀貨と銅貨がテーブルの上に散らばっていく。
 それらはテーブルから落下し、這いつくばるフィオナの近くに転がってきた。そして、フィオナの目の前に、一枚の硬貨が力なく倒れる。
 フィオナの表情が絶望の色に染まっていく。信じられないとわなわな震えたまま、その硬貨を凝視し続けることしかできなかった。
「それなりに収益を上げていたのなら認めざるを得なかったが、これっぽっちとはな」
(これっぽっち……)
 心が、まるで硝子のようにバキバキと音を立てて割れていく。
 ナサニエルにとっては、たいしたことない金額なのかもしれない。でも、彼がぶちまけたお金は、フィオナがいつかこの家を抜け出し、ひとりで生きていくために必要なものだ。
 言わばそれは、フィオナにとって明るい未来の象徴であり、希望だった。
 裕福な暮らしなんてするつもりはない。慎ましい生活でもいい。平民にまぎれて心穏やかに過ごすために用意してきたもの。  その希望が少しずつ膨らんでいくことを励みに生きてきた。どれだけ虐げられようと折れずにやってこられたのは、生きる目標があったからだ。
 でも、そんなフィオナの努力をあざ笑うがごとく、全てを奪われる。
「まあいい。この金は有効活用してやる。お前がエミリーにかけた迷惑料にすらならんがな!」
「嫌だ。やめて……お願い。お願いします、返して!」
 悲痛な声はむなしく響くだけだった。床に押さえつけられているせいで、手が伸ばせない。目の前に転がっているたった一枚の硬貨すら、フィオナは取り返せなかった。
「ふん!」
 ナサニエルがこちらに近付いてきたかと思うと、その一枚の硬貨を踏みつける。近くにいた使用人に声をかけて、手に持っていた布の束を押しつけた。
「一度売られたこれらは無価値だ。焼き払ってこい」
「叔父さま! やめてっ!」
「生意気な娘め! 言っておくが、お前が懇意にしていた商人には、二度とお前のものは買い取らぬように言いつけたからな。言いつけを破ったら、あの商会がどうなるかわかるな?」
「……っ」
 最後の希望まで奪われた。
 全部、フィオナの手からこぼれ落ちていく。
(大事な刺繍は焼き払われ、大切な縁すら断ち切られるなんて)
 目の前が真っ暗になったような気がした。言い返す気力すら失い、力なく項垂れる。
「お姉さまったらかわいそう! でも仕方がないわね。貴族に相応しくない振る舞いばかりなさるのだもの。親がいないって、本当にかわいそう」
 クスクスと嘲笑するようなエミリーの声が、いつまでも耳の奥に響いているように感じた。  
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