離縁予定の捨てられ令嬢ですが、 なぜか次期公爵様の溺愛が始まりました
――しかし。
あれよあれよという間に見合いの日。フィオナは見たこともない立派な建物を前にして、完全に固まってしまった。
(なんだか……すごいところに来てしまったのかもしれない)
レリング伯爵家の馬車に揺られて王都まで。フィオナはひとりウォルフォード公爵家のタウンハウスにやってきた。
王都の外に領地を持つ地方貴族のタウンハウスと言えば、社交シーズンだけ利用する庭のないシンプルな屋敷であることも多い。
けれど、さすがウォルフォード公爵家だ。レリング伯爵家の屋敷がすっぽりと入ってしまいそうなほど広く、手入れの行き届いた美しい庭に、歴史を感じる重厚な邸宅。圧巻と言ってもいいその存在感に、フィオナはごくりと息を呑んだ。
フィオナが来ることは事前に連絡してあったため、玄関前には使用人がずらりと並んでいる。馬車の扉が開いた瞬間、その人数や彼らの洗練された所作に圧倒されつつも、フィオナは導かれるままに馬車を降りた。
フィオナは俯いて逃げ出したくなるのをぐっとこらえた。場違いもいいところだ。
さすがに普段のぼろぼろの服で向かわせるわけにはいかないから、エミリーのお下がりを着せられている。けれど、彼女とフィオナではなにもかもが違いすぎた。
エミリーと比べて背が高いフィオナでは袖が足りないし、そもそも丈が合っていない。そのくせ痩せぎすなものだから、どうあっても似合わない。
さすがにあかぎれだらけの手は手袋で隠しているけれど、肌にも髪にも艶はないし、かわいらしい雰囲気のドレスだけが浮いていた。
まるで平民を代理に立てたかと疑われそうなほど、貴族のご令嬢らしさの足りない娘がやってきて、使用人たちも困惑しているに違いない。
けれど、さすがはウォルフォード公爵家の使用人といったところだろう。彼らは笑みを湛えたまま、フィオナを出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました、フィオナ・レリングさま」
まずは一番手前に立っている、白髪交じりの細身の男性に話しかけられた。
「私はこの家の家令をしております、トーマスと申します」
ピンと背筋が伸び、無駄のない立ち居振る舞いが美しい。やってきたのがエミリーではなく、フィオナのような華のない娘であっても、態度を崩すことなく丁寧に接してくれる。ただ、彼の挨拶には、こちらの様子を見定めているような雰囲気もあった。
トーマスだけではない。ずらりと並んでいる使用人たちが、どこかフィオナに期待をするような――同時に、不安を抱えているかのような緊張感を持っているのだ。
その理由は明白だ。見合いをはじめて早々に、この屋敷を出ていってしまう令嬢が後を絶たないというのだから。同時に、やってきた娘が供をひとりも連れず、荷物すら持っていないことも訝しんでいるようだ。
(荷物なんて、なにも持たせてもらえなかっただけなんだけど)
とはいえ、彼らが不安に思うのも当然だ。せめて立ち居振る舞いだけは気を付けようと自分に言い聞かせた。
両親が生きていた頃には、ちゃんとした教育を受けていた。だから、振る舞いなら貴族のご令嬢としての及第点を出せる自信はある。
ただ、相手は公爵家。上級貴族相手に自分のマナーが通用するかどうかはわからない。
それでも、フィオナだって進んで追い出されたいわけではない。どうせすぐに放り出されるとは思っているけれど、穏便に済ませたいというのが本音だ。
どんなにひどい言葉を浴びせられ、暴力を振るわれようとも、静かに耐えよう。そう心に決めて、できるだけ美しい立ち方を心がけながら、フィオナはトーマスに視線を向けた。
「セドリックさまがお待ちです。どうぞ、こちらへ」
そうして緊張感を持ったまま、粛々と屋敷の中へ案内された。
予想外だったのは、屋敷に足を踏み入れてすぐにフィオナの心が動いたことだった。
白を基調とした広々とした玄関ホール。大理石の床が美しく、柱ひとつひとつにまで凝った装飾が施されている。その見事なつくりに一瞬にして目を奪われた。
伝統的な紋様が多く、天空を思わせる雲モチーフの装飾が入った柱のほか、細やかな葉や蔓の装飾が壁や天井を彩っている。
さらに正面には背中合わせのオオカミと盾の他に、菫の花と葉の装飾が入ったタペストリーが飾られており、その威風堂々とした佇まいに目を奪われた。ひとつひとつの紋様の美しさもさることながら、まったく形の異なるそれぞれのシンボルが綺麗に調和しており、見事と言うほかない。
(あれはウォルフォード公爵家の紋章ね。気高さがありながらも、どこか優しさも感じるわ)
あの意匠を刺繍するとしたら、どの糸を選ぶだろう。花型装飾はフィオナも得意とするところだが、王道である紋様の美しさに胸を打たれる。この意匠を自らの手で形にしてみたいと強く感じ、気が付いた時には手が勝手に動いていた。宙を縫うように自然と弧を描いており、ハッとする。
だって、久しぶりに刺繍のことを考えた。
ナサニエルたちに責め立てられ、あの狭い部屋に閉じ込められてからも、ずっと手は動かしていた。でも、気持ちは沈んだままで、なんだか硬い殻の中に閉じこもったような感覚でいたのだ。大好きな刺繍をしていても、それに心は伴わない。 こんな図案を縫ってみたいとか、どんな布や糸を使おうとか。以前ならば呼吸するかのごとく妄想してきたことが、ずっとできないでいたのだから。
フィオナは息を呑んだ。
(これまでの自分が、自分じゃなかったみたい)
それにようやく気付けて、胸を撫で下ろす。あの暗くて狭い部屋を出たのだと、今さらながら実感した。久しぶりに自分を取り戻したような感覚すらある。
「フィオナさま?」
「――あ。ごめんなさい。あまりに見事なお屋敷で」
見とれて足を止めてしまっていたらしい。
心が、じくじくしている。まるで氷が解けはじめたように。あるいは、傷が少しずつ癒えはじめたように。ようやく自分の全身に熱が通いはじめた心地がして、安堵して息をつく。
そうするうちに強張っていた表情筋が緩んでいたらしい。フィオナの微笑みを見たトーマスまでもが、なぜか安心したかのように眦を下げた。
「それはよろしゅうございました。後ほど、屋敷をご案内いたしましょう」
優しく呼びかけられると、フィオナの心にトォンと響いた。
なんということのない当たり前の会話であるはずだ。でも、そんな当たり前のことすら、これまでのフィオナは享受できなかった。
(この人が仕えている主人なら、悪い人ではないかもしれない)
これはある種の予感だった。
トーマスの優しさを噛みしめるようにして、ギュッと唇を引き結ぶ。するとトーマスは、なにやら切実そうな色を浮かべて頭を下げた。
「――どうか。どうかセドリックさまを、よろしくお願いいたします。物言いの厳しい方ではありますが、本来とてもお優しい方なのです」
まるでなにかを託すかのようなトーマスの言葉の意味を考えているうちに、目的の部屋へとたどり着いたらしい。
そこは屋敷の玄関ホールにほど近い応接間であった。
フィオナを迎えるために準備されていたようだが、なぜか昼間なのにカーテンは閉じられ、少し薄暗い。
暖炉には火が灯っているし、ランプの光によって部屋全体は見渡せる。贅を凝らした調度品に溢れた部屋ではあるけれど、その奇妙な薄暗さのせいか、足を踏み入れるのを躊躇する。
「我々は席を外すよう申しつけられておりますので」
トーマスが申し訳なさそうに告げる。
まさか相手となるセドリックと一対一で話さなければいけないのだろうか。
緊張で喉がカラカラになりそうだが、もう覚悟は決めた。フィオナはしっかりと瞳に光を宿し、大きく頷く。そしてひとり応接間へと足を踏み入れた。
カツカツと足音が聞こえてきて、フィオナは体を強張らせた。ソファーから立ち上がり、入口のドアの方へと目を向ける。
(いらっしゃったわね)
冷酷だと噂の次期公爵との対面を前にして、思いのほか緊張しているらしい。カタカタと自分が震えていることを自覚する。どうにか気持ちを落ち着けようと、静かに、そして深く呼吸する。
そうして現れた男を目にした瞬間、フィオナの震えはピタリと止まった。
噂以上だと素直に思った。
艶やかな黒髪に高貴な菫色の瞳。陶器のような滑らかな肌に、すっと通った鼻筋。薄い唇は形がよく、その表情の冷ややかさすら彼の美貌に馴染んでいる。
見目のよい殿方だとは聞いていたが、ここまで整った顔立ちの人をフィオナは見たことがなかった。
男性らしい均整の取れた体つきに、すらりと長い手足が紺色のコートに映える。圧倒されるほどの美しさを誇る彼こそが、次期公爵と名高いフィオナのお相手なのだろう。
男はフィオナを一瞥してから、部屋の中へと歩いてくる。
彼自ら、小さな瓶やらペンやらが詰められた木箱を抱えてきたらしい。その左手の薬指にきらりと光る古びた指輪を見つけ、フィオナは瞬いた。ああ、噂は本当だったのかと。
どうもその白金の指輪には、彼の瞳と同じ菫色の石がひとつついているようだった。見間違いでなければ、その石がなぜか淡く発光しているような気がする。 ぱちぱちと瞬いているうちに、男はフィオナの向かいの席の前に立った。
そこで、ぱたんとドアの閉まる音がする。トーマスか誰かがドアを閉めたのだろう。
いよいよ男とふたりきり、フィオナはこの薄暗い応接間に閉じ込められた。
「セドリック・ウォルフォードだ」
自己紹介は簡潔極まりなかった。どう考えても見合いの挨拶とは思えない。けれど、そんなことをいちいち気にしていられない。
「レリング伯爵家、前当主が長女フィオナ・レリングと申します。お目にかかれて光栄です」
丁寧にカーテシーをし、彼の目配せを合図にソファーに腰かける。ローテーブルを挟んで彼と向かい合う形になり、緊張で身を固くする。
セドリックは手にしていた木箱をことりとテーブルの上に置く。それから一切表情を変えずに、静かにフィオナを見つめて語り聞かせた。
「最初に言っておく。これから話すことは他言無用だ。誰にも話さぬよう契約魔法を結ばせてもらう。それすら呑み込めぬようなら、今すぐこの屋敷を出ていってもらおう。――どうする、フィオナ・レリング」
「契約魔法?」
まさかの提案に、フィオナは困惑した。
噂では聞いたことがあるものの、実際に契約魔法を結ぶことなど初めてだ。というよりも、魔法自体、フィオナにはあまり馴染みのないものだった。
魔力は生きとし生けるものすべてが授かる、生命活動に必要なものである。魔力が体内を廻ることで、人の体は正しく機能するのだ。
ただし、数万人にひとりほどの割合で、莫大な魔力を持つ人間がいるという。彼らは魔力を体外に放出する際、なんらかの不思議な効果を生み出せるというのだ。
そういった特別な才能を持つ者のことを、人々は魔法使いと呼んだ。
魔法使いはその才が見つかり次第、王都に集められる。これは大変名誉なことで、彼らは鍛練を積んだ後、そのほとんどが魔法省に所属するのだとか。
遠い昔、フィオナも何度か魔法省の人間を目にしたことがある。彼らは国に雇われて、年に一度、各村々を廻っているようだった。
当然、レリング領にもやってきていた。広場に子供たちを集めて、なにもないところから水や炎を発生させたり、物を浮かせたり。フィオナもそれを遠目に見て、自分にも魔法が使えたらと憧れたものだった。もちろん、フィオナにはそんな才能などなかったけれども。
彼らの魔法はまるで大道芸のようにも見えた。でも、今考えると本来の目的は別にあったのだろう。
ああやって魔法を周知して回り、その才能を持った人間を探していた。街での活動が終わると、いつもフィオナの屋敷にやってきて、当時の領主であった父となんらかの会談をしていたようだったし。
とはいえ、フィオナがすべてを奪われ、離れに押し込められるようになってからは、彼らを目にする機会もなくなっていた。
魔法使いたちが、普段どのような活動をしているのかは知らない。ただ、フィオナには縁のないものだし、今後もそうだと思っていた。
けれど、ここにきて契約魔法とは。魔法によって契約を破れなくする手段らしいが、相当重要な取引にしか使用されないものだと聞いている。
「この契約魔法は魔法省『七芒』アラン・ノルブライトの名でもって成立するものである」
そう言ってセドリックは、箱の中から一枚の紙を差し出した。他言無用であるという文面の後、確かにアラン・ノルブライトという人物のサインと血判がある。
アラン・ノルブライトと言えば、この国で有数の魔法使いで、セドリックと同じく王太子の側近のひとりのはず。
七芒というのは魔法省の位で、その頂点に立つ創主、次位の三輝に次ぐ第三位。わずか七名の人間にしか与えられないという稀少な称号だ。魔法省全体でも十指に入るという非常に優秀な魔法使いである。
魔法使いというだけでも驚きなのに、そんな雲の上の人物まで関わってくるだなんて。
「誓いを破れば、破った者に確実に大きな災いが訪れる。身体能力の損傷――五感を失うというのが定説だな。実際、以前契約魔法を破った輩は声を失った」
「……っ」
どんな話をされようと、契約を破るつもりはない。けれど、出会って早々にこんなにも重たい話をされるとは。声を失うなど相当なことではないだろうか。
(なるほど、これは……)
これを聞いた時点で、引き返す令嬢は多いだろう。
そもそも、なにを聞かされるかすらわからないのに、それを漏らせば身体能力の損傷に繋がると聞いて、話を聞きたがる女性は多くないはずだ。
フィオナはごくりと唾を飲み込む。
「さあ、どうする」
「もちろんうかがいます」
それでもはっきり答えると、セドリックは意外とでも言うかのように片眉を上げた。
「――そうか。わかった」
ふむ、と頷き、彼はまじまじとフィオナを見た。興味深そうにじっくり観察され、どことなく居心地が悪い。けれど、フィオナは大人しくしていることしかできない。
「では、最初に言っておく。次期公爵とは言われているが、私に公爵家を継ぐつもりはない」
「え?」
さすがに予想しなかった言葉を告げられ、フィオナは瞬いた。
「どうだ? 私の身分や財産に期待していたのなら、婚姻などやめておけ。わざわざ王都までやってきたというのに、残念だったな」
まるでフィオナが身分や財産目的であると決めつけるかのごとく、セドリックは冷たく言い放つ。
(もしかして、これを聞いてがっかりした女性が多かったのかしら……?)
彼の言葉に戸惑いはする。けれど、フィオナは別の意味で困惑していた。
「それは、全然構わないのですが……あの、それだけですか?」
「は?」
つい口をついて出た言葉に、セドリックが目を見張る。
てっきり噂の恋人の話でもされるのかと思っていた。もちろん、恋人がいようがいまいがフィオナにはなんの問題もないけれど。
どうせこの婚姻は成立しないだろうし、口外無用を言い渡されるのであれば、秘密にしやすい内容の方が気持ちが楽だ。恋人の話は、色んな人が根掘り葉掘り聞きたがるだろう。だから、その話でなくてよかったと胸を撫で下ろす。
誰もがセドリックこそ次期公爵であると信じて疑わない。わざわざ訊ねられるような内容でもないだろう。なんとも背負いやすい秘密でホッとする。
それが表情に出てしまったのだろう。セドリックが面食らったような顔をして、こちらを見つめていた。
「あ。――その、申し訳ありません。なにを仰るのかとドキドキしておりましたので。お話をうかがって、少しホッとしました」
「ホッとするのか? これが?」
「ええ。なにも問題ありません」
「問題、ないのか? 本当に?」
「はい。正直、秘密にしやすくて助かります」
安心してもらえるように大きく頷いてみせると、セドリックは頬を引きつらせた。だが、すぐにもとの厳しい表情に戻り、話を続ける。
「では、もうひとつの条件だ。婚姻を結んだとして、二年で離縁してもらうと言えば?」
「二年で?」
「ああ、そうだ。君は二年後、公爵家の嫁としての身分を失う。――もちろん、こちらの都合で離縁してもらうのだ。再婚相手を探すなり慰謝料を払うなり、それなりの保障はしよう」
「え?」
先ほど以上に衝撃的な提案に、フィオナは完全に固まった。
(え? あれ? それってつまり――)
彼が提示した条件の前に、情報を整理しなければならない。
そもそも論から訊ねてもいいのだろうか。
つい物言いたげな目を向けると、セドリックはフンと鼻で笑う。
「まあ、二年を棒に振り、離縁などという不名誉を背負い込むなどごめんだろうがな」
どうせこれで折れるのだろうとでも言いたそうだ。 でも、正直フィオナが引っかかっているのはそこではない。
「……ウォルフォードさま。失礼ながら、ひとつうかがってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの」
あまりに失礼なことすぎて言い淀む。
けれど、大前提を確認しないと話を前に進められない。
「ウォルフォードさまは、それらの条件にわたしが頷けば、本当にわたしと結婚なさるおつもりなのですか?」
「は?」
つまり、そもそも誰かと結婚するつもりがあるのかということである。
彼も予想だにしていなかった質問だったらしい。綺麗な顔がピシリと固まった。それから珍獣でも眺めるように、まじまじとフィオナを見つめてくる。
(すごい。……わたしなんかの質問に、なんだかとっても真剣に考えていらっしゃる)
考えなしに訊ねてしまって、申し訳ないくらいだ。
でも、フィオナは異なる意味で安堵もした。
冷酷で、婚姻予定の相手に暴力を振るうような男性だと聞いていたが、そんな雰囲気はこれっぽっちもない。確かに言葉は厳しく聞こえるが、冷酷というよりも端的という印象だった。
飾り言葉が得意な令嬢にとっては恐ろしい相手なのかもしれないが、フィオナにとってはなんということもない。というよりも、真意を理解しやすくて案外話しやすいかもしれない。
「君は、私と見合いをするためにここに来たのでは?」
「それは、そうなのですが。――失礼を承知で申し上げると、てっきり追い出されるものなのだと」
「なにが悲しくて追い出す前提で見合いをしなければいけないのだ。互いに時間の無駄だろう」
「すみません」
「いや。――私も、逃げ出される前提で話しているところもあった。それは詫びよう」
(ほら、こういうところ)
少し気まずそうに、目を背けているあたり人間味がある。
それに、この人にはフィオナに対する悪意がない。
最初こそ見定めるような目を向けてきたし、フィオナが普通の令嬢ではないことなどすでにお見通しだろう。それでも、あくまで見合い相手として見てくれていたらしい。
「私が身を固めないかぎり、王妃陛下の計らいで、すべての貴族女性と見合いさせられそうな勢いでな。――君には悪いが、二年間、その盾になってもらいたい」
「盾……」
なるほど。彼の思惑は理解した。
結婚を望まぬ彼にとって、名ばかりの妻が必要ということらしい。
「よかれと思って取りなしてもらえるのはありがたいが、私にこの家を継ぐつもりはない。だから本物の妻など不要なのだ」
妻の役割を考えると、確かに公爵家を継ぐつもりのない彼にとって必要ないのかもしれない。もし、結婚した女性に愛することを強要されたら困るだろう。さらにその女性との間に跡取りなど生まれてしまったら大変だ。それが彼の目的にとって足枷(かせ)になるからだ。
フィオナはそっと、彼の左手薬指に光る指輪に目を向けた。彼の真の目的を考えると、妻という存在自体が邪魔なのだろう。――誤解されてしまっては困るだろうし。
「事情は理解しました」
「そうか。話が早くて助かる」
「つまり、二年後に意中の女性と結婚なさる算段がおありで、それまで時間稼ぎをしろと」
瞬間、彼が両目を見開いた。
しばしの沈黙。パチパチパチと、暖炉の火の音が妙に大きく聞こえる。
「……は?」
セドリックは明らかに動揺しているようで、完全に固まっている。なるほど、まさかフィオナの方からその話を持ちかけるとは思わなかったのだろう。
彼の感情がここまではっきり顔に出るのは初めてで、フィオナは納得した。
(よほど大切な方なんだわ)
周囲になんと言われようとも、一切外されることのない指輪。外聞を気にせず堂々と身につけているなど、相当な覚悟と決意が必要だろう。
(お相手の女性は、愛されているのね)
いらぬものとして扱われているフィオナとは大違いだ。
フィオナは目を伏せた。心を落ち着けて、自分の心の中でひとつの結論にたどり着く。
(だったら、わたしの取るべき行動はひとつね)
お飾りの妻として余計なことはしないように、屋敷の奥でひっそりと過ごせばいい。それはフィオナにとって難しくないことだ。
フィオナは大きく頷いた。なんだか気持ちが軽くなって、にっこりと笑ってみせる。
「大丈夫です、わきまえております」
「は? いや、君はなにを……?」
セドリックは狼狽しているようだけれど、安心してほしい。フィオナは彼らの邪魔立てなどしない。
突きつけられた条件は、確かに普通の貴族令嬢にとっては受け入れがたいものだろう。 とはいえ、彼に恋人がいたところで、フィオナにはなんの問題もない。むしろ都合がいいくらいだ。フィオナが自分の立場をわきまえるためにも、よい抑止力になるだろう。距離感を間違えないよう、常に意識をしていればいいだけのこと。
それさえ気を付けていれば、二年の間、衣食住に困ることがない。そして契約を全うした暁には、それなりの保障をしてもらえるのだから。
(ありがたいことね)
未来が開けていく心地がした。
フィオナに再婚相手は不要なので、できれば金銭でお願いしたいところだ。あのセドリック・ウォルフォードが約束してくれるのだから、独り立ちするには十分だろう。
「わたしはウォルフォードさまの事情を隠すための、仮初めの妻ということですね」
「それは、そうなのだが」
とんとんとん、とセドリックがこめかみを何度か叩(たた)いている。眉間に皺(しわ)を寄せてたっぷり考え込んだ後、こほんと咳払いをした。
「まあいい。とにかく、この条件が呑めるなら君と結婚する。ただし――」
彼は自ら、そっと左手の指輪に触れた。先ほどフィオナが彼の指輪を見ていたことに気がついていたようだ。
「この指輪は私に必要なものだから外さない。それだけだからな、勘違いせぬように。――ああ。だから揃いの結婚指輪は作れない。これも条件に入れてもらおう」
彼は短く話を切り、有無を言わせず了承させられる。
(なるほど、これ以上詮索するなってことね)
はっきりと頷いてみせると、彼はしばらく黙り込み、ゆっくりと目を伏せた。愁いに満ちた様子で眉根を寄せ、菫色の瞳に暗い色を灯す。
「――二年後、弟のライナスが成人する。その際、私はあいつに次期公爵の座を譲り渡したいんだ。そのためにも子を成すつもりはない。だから、私に愛されることは期待しないでほしい」
フィオナの胸の奥が、とくんと静かに音を立てる。
(この表情――)
彼が家族を領地に閉じ込めているという噂は知っている。
でも、今の条件を聞いて、その噂も嘘なのかもしれないと思った。だって彼は家族を心配し、慈しむような表情をしていたから。
(恋人のことも、ご家族のことも。それぞれ深く考えていらっしゃるんだわ)
噂と違って愛情深い人かもしれない。二年という時を費やして彼の役に立てるのは、純粋に喜ばしく感じた。
「承知しました。では二年、ウォルフォードさまが納得できる形で契約を。わたしが相手でもよろしければ」 「そうか、了承してくれるか。――感謝する。それで?」
突然話を振られるも、意味がわからずに首を傾げる。
そんなフィオナの察しの悪さに呆れるわけでもなく、彼は淡々と続けた。
「君には要望はないのか?」
「え?」
こちらの要望も聞き入れてくれるとは思わず、驚きでぽかんと口を開ける。すると彼は怪訝そうな顔つきで片眉を上げた。
「これでは、私が一方的に要望を押しつけただけではないか。これは取引だ。君にも利があって然るべきだろう?」
まさかの提案にフィオナは息を呑む。
(私の話まで、聞いてくださるんだ)
胸の奥がじわりと熱くなる。彼の言葉は、傷だらけのフィオナの心に温かく沁(し)みた。少しだけ目頭が熱い。涙がこぼれぬよう我慢しながら、フィオナは口角を上げた。
彼にとってはなにげない言葉だったのかもしれない。でも、フィオナにとっては温かく、眩しい。
(真摯でいよう)
これから先、彼に対して。そして彼の示してくれる誠意にしっかり応えよう。
たった二年間の仮初めの婚姻だ。
彼は自分の要望を一方的に押しつけただけだと言ったけれど、その言葉の向こうにセドリックの誠実さを感じた。トーマスは、彼のことを『物言いの厳しい方ではありますが、本来とてもお優しい方なのです』と言った。
今、フィオナも、セドリックに対して同じ印象を持った。
二年間、この優しい人のために尽くそう。そう決めた。
「それで? なにかないのか?」
「契約魔法で縛らなくてはならないようなことは、なにも」
セドリックは驚くように息を呑む。フィオナの言葉の真意を知りたいのか、話を促すように身を乗り出す。
でも、フィオナの伝えたいことはシンプルだ。呼吸を整え、真っ直ぐに伝える。
「わたし、フィオナ・レリングはウォルフォードさまを信用いたします」
「……そうか」
セドリックは噛みしめるように呟いた。それから口元を押さえ、そっと視線を横に向ける。
「君は、少し甘いところがあるな」
「そうかもしれませんね。公爵家に嫁入りするなど、本来分不相応な娘です。だから特別なことなど望みません」
「それは」
セドリックがなにか言いたげにこちらを見る。しかしそれはわずかの間で、すぐにふるふると首を横に振った。
「いや。しかし、契約魔法まで結ぶのだ。一方的すぎるのは私も気が引ける。なんでもいい。要望は先に言ってくれ」
言わないと先には進めなそうな勢いだ。
さすがにフィオナも折れて、では、とおずおずと伝えるに至った。
「先ほど仰った二年後のことですが。再婚相手は探さなくて結構ですので、できれば、その――」
「なんでも言え」
「……お金、を」
声が尻すぼみになってしまう。仮にも貴族の娘が直接金銭をねだるのはどうかとも思うが、セドリックはしっかりと頷いてくれた。
「かまわない。では、五千万ティオでどうだろう」
「ご、五千万!?」
驚きの数字に、フィオナは素っ頓狂な声をあげる。聞いたこともないような金額だ。平民として生きていくならば、一生お金に困らないほどの金額ではある。
「少なかっただろうか。では――」
「違います! 多すぎます! 身を滅ぼしかねないので、もう少し減らしていただけると!」
これ以上金額をつり上げられてはたまらない。
叔父一家に見つからないようにひっそりと生きたいだけなのだ。多すぎる現金を持たされると、逆に心配事が増える。
ひっそりと慎ましく暮らすつもりではあるが、ナサニエルのような勘の鋭い人間というのは存在する。フィオナがお金を持っていることを嗅ぎつけて、変な人間に目をつけられる可能性は考えておくべきだ。強盗などの心配もしなくてはならないだろうし、かといって警備の者を雇うのも、それはそれで目立ってしまう。
だからといって生きていくために最低限の金額をお願いすれば、セドリックに怪しまれる可能性もある。
さて、どうしたものだろう。
(二年後は市井の人に紛れて生きていきます、なんて言えるはずがないし……)
これまでの少ない会話からもわかる。彼はどちらかというと義理堅く、真面目な性格なのだろう。二年後、フィオナが平民になったことを知ったら、彼は心を痛めるかもしれない。
こんなによくしてもらうのだ。彼に変な心の枷をつけたくない。だから彼にも見つからないように、ひっそりと生きる方法も考えなければ。
「君の二年という時間をもらうのだ。私はそこに五千万ティオの価値があると思ったからこそ、提案したのだが?」
それを否定するのかと言わんばかりに、彼の視線が鋭くなる。頑なな様子で、彼が金額を引き下げてくれる雰囲気はなさそうだ。
フィオナは頭を悩ませた。
(どうしよう。受け取り方を変えてもらうとか……いっそ、寄付に回すのもありね。二年もあるから方法はゆっくり考えよう)
問題を先送りするのは得意だ。だからフィオナは覚悟を決めて、大きく頷いてみせた。
「わかりました。仰る通りの金額でお願いします。でも、二年後――たとえば受け渡しを幾度かに分けるなど、受け取り方法を指定させていただいてもよろしいですか?」
フィオナの提案に対して、セドリックは鷹揚に頷いた。
「もちろん問題ない。君の希望に沿うように取り計らおう」
「ありがとうございます。でしたら、他に要望はございません」
「そうか。では、今の内容を書き足そう」
そう言って彼は、木箱の中からもう一枚の紙を取り出した。
最初に見せられたのは、彼の事情を他言無用にするための契約書であったはず。そこには、どの話題を口に出してはならないか、つらつらと書き連ねてある。
それとは別にもう一枚、彼は事前に契約書を用意していたらしい。
――セドリックは公爵家を継ぐつもりはなく、それを認めること。
――二年後に離縁すること。
――子を成す行為はしないこと。
そして最後に、離縁の際、フィオナに五千万ティオを支払うこと。なお、その手段については本人と協議の末決めると書き足してもらった。
カッチリとした硬質な字で自分の名前を書き、セドリックはフィオナに視線を向ける。
「次は君だ」
言われるままに、フィオナは二枚の契約書それぞれに自分の名前を綴った。
セドリックはフィオナのサインを検(あらた)め、文面をもう一度確認する。不備はないようで大きく頷くと、その二枚の紙をテーブルの上に置いた。
「では、契約魔法を結ぼう」
迷いなくそう告げるセドリックに対し、フィオナは小首を傾げる。
「ウォルフォードさまも魔法が使えるのですか?」
「いや」
フィオナの質問に彼は首を横に振りながら、持ってきた箱から小さな瓶を手に取った。
「この瓶の中に、アラン・ノルブライトの魔力を液状化してもらっている。私自身が魔法を使えずとも――」
セドリックがその瓶の蓋を取った瞬間、入っていた透明の液体が黄金色に発光した。
「アランの魔力をかければ、契約魔法は発動する」
「わ、あ……っ!」
薄暗い部屋の中だからこそ、その黄金色はより煌々と輝いた。不思議な光景にうっとりと見とれてしまう。
「とはいえ、他人の魔力だからな。余計な力が混じらぬよう、日光の影響を受けないようにするんだ」
そう教えてくれながら、彼は輝く液体を二枚の紙に向かって流し込むように傾けた。
ざあああ、と黄金色の液体が二枚の紙に流れ込む。その液体はこぼれることなく、みるみるうちに紙に吸収されていく。
瓶の中身が空になる頃には、二枚の紙は黄金色に染まり、紙自体が発光していた。
「本来、契約魔法を結ぶ際には、本人も見届けるべきなのだが――まあ、適当な男でな。普段からこうして、彼の魔力を預けられているわけだ」
文言を書き足した先ほどの様子を考えても、契約内容すらも任せられているのだろう。契約魔法というのはかなり重要な契約だと思うのだが、アランという人はそれすらも気にしない剛胆な性格のようだ。
「あとは互いの血判を押せば、契約完了だ」
そう言いながら、セドリックは箱から小型のナイフを取り出した。慣れた手つきで左手の親指を切り、二枚それぞれに血判を押す。
思った以上にしっかりと傷をつけていて、フィオナは頬を引きつらせた。
「――ああ、心配しなくていい。私は血に魔力が滲みにくい体質でな。多めに血液が必要なんだ。君はここまでしなくても大丈夫だ」
曰く、どのような人間でも血には微量の魔力が含まれているのだとか。そして、契約魔法には本人登録のために、その魔力が必要らしい。
言葉通り彼はすぐにナイフを仕舞ってしまう。代わりに小さな針を取り出した。
「左手を貸してくれ」
確かに針なら怖くはない。でも、フィオナは躊躇した。
「痛くはしない。怖いなら、目をつぶっておくといい」
契約を結ばないと前には進めない。だから手を出さないわけにはいかない。
フィオナは静かに息をついた。それから意を決して、ゆっくりと左手の手袋を外した。ぼろぼろで、針すらも必要ないのではと思えるほど、無数のあかぎれができた労働者の手が現れる。
事情があることくらい、とっくにバレているだろう。それでも、令嬢らしからぬこの手を見られることは憚られた。
彼が差し出してくれた手に、恐る恐る労働者の手をのせる。彼は一瞬目を見張るも、すぐにいつもの無表情に戻った。
「怖がる必要はない。すぐに終わる」
「大丈夫です」
「――そうか」
チクリとした痛みは一瞬だった。
彼はその手を、契約書にあるフィオナのサインの横に押しつける。少し手を離し、もう一度血がぷくりと溢れるのを待ってから、もう一枚も。
そうしてフィオナが血判を押した瞬間、二枚の紙はふんわりと発光し――やがて集束していく。ふたり分の血判が黄金色に変わり、紙自体はもとの白に戻っていた。
彼は血がつくのも厭わず、自分のハンカチーフでフィオナの指を押さえる。
「ウォルフォードさま、せっかくのハンカチーフが汚れてしまいます!」
傷痕はどこなのかわからないほどで、すぐに血は止まった。放っておいても構わない程度のものだ。むしろ、ざっくりと指を切っていた彼こそ止血すべきではないだろうか。
「問題ない。それより、これで契約は完了だ」
有無を言わせず彼はフィオナの指先を確認してから、大きく頷く。
「私としてはいつ入籍しても構わない。ただ、できるならば早めに。それから規模は小さめに済ませたいのだが」 なんの規模かというと、おそらく結婚の挨拶や結婚式のことだろう。
「ウォルフォードさまのご希望に従います」
「助かる。では、これからよろしく頼む。――フィオナ」
そこで初めてちゃんと名前で呼ばれた。
どきりと胸が高鳴り、反射的に握られていた手を引っ込めた。
胸の前で荒れた左手を右手で隠すように覆ってから、ごくりと唾を飲み込む。
二年間限定の仮初めの婚姻。役割は、彼のお飾りの妻に徹すること。
自分の立場を再確認し、はっきりと宣言する。
「はい。精いっぱい務めます。その――」
名前を呼ぼうとして、はたと固まった。
(セドリックさまとお呼びしていいのかしら? でも――)
どことなく憚られる。どうせ二年後に離縁するのだ。だから踏み込みすぎないようにするべきだろう。距離感を考え、フィオナはひとつの答えにたどり着いた。
「旦那さま?」
「……っ」
セドリックは面食らったような顔をして、視線を逸らした。ああ、と掠(かす)れた声で返事があったから、この呼び名でいいのだろう。ホッとして、フィオナは頬を緩めた。
「ひとまず、家の者に君を紹介することにしよう」
そう言ってセドリックは立ち上がり、フィオナにそっと手を差し出した。
(そっか。エスコート)
ぱちぱちと瞬いてから、フィオナもゆっくりと立ち上がる。淑女らしさを意識して、たおやかな物腰で彼に応えた。
導かれるままに応接間を出る。そしてセドリックは、そわそわした様子のトーマスを呼び止めた。使用人たちを召集するということは――と、膨らむ期待に表情を明るくしたトーマスは、すぐに全員を呼び集めた。
屋敷全体がにわかに騒がしくなり、急いで集まってきた使用人たちに対し、セドリックが宣言する。
「紹介しよう。レリング伯爵家のご令嬢フィオナ・レリング嬢だ。彼女がこの家の女主人になることが決まった。よく仕えるように」
瞬間、わっと明るい歓声が皆の口から飛び出したのだった。
あれよあれよという間に見合いの日。フィオナは見たこともない立派な建物を前にして、完全に固まってしまった。
(なんだか……すごいところに来てしまったのかもしれない)
レリング伯爵家の馬車に揺られて王都まで。フィオナはひとりウォルフォード公爵家のタウンハウスにやってきた。
王都の外に領地を持つ地方貴族のタウンハウスと言えば、社交シーズンだけ利用する庭のないシンプルな屋敷であることも多い。
けれど、さすがウォルフォード公爵家だ。レリング伯爵家の屋敷がすっぽりと入ってしまいそうなほど広く、手入れの行き届いた美しい庭に、歴史を感じる重厚な邸宅。圧巻と言ってもいいその存在感に、フィオナはごくりと息を呑んだ。
フィオナが来ることは事前に連絡してあったため、玄関前には使用人がずらりと並んでいる。馬車の扉が開いた瞬間、その人数や彼らの洗練された所作に圧倒されつつも、フィオナは導かれるままに馬車を降りた。
フィオナは俯いて逃げ出したくなるのをぐっとこらえた。場違いもいいところだ。
さすがに普段のぼろぼろの服で向かわせるわけにはいかないから、エミリーのお下がりを着せられている。けれど、彼女とフィオナではなにもかもが違いすぎた。
エミリーと比べて背が高いフィオナでは袖が足りないし、そもそも丈が合っていない。そのくせ痩せぎすなものだから、どうあっても似合わない。
さすがにあかぎれだらけの手は手袋で隠しているけれど、肌にも髪にも艶はないし、かわいらしい雰囲気のドレスだけが浮いていた。
まるで平民を代理に立てたかと疑われそうなほど、貴族のご令嬢らしさの足りない娘がやってきて、使用人たちも困惑しているに違いない。
けれど、さすがはウォルフォード公爵家の使用人といったところだろう。彼らは笑みを湛えたまま、フィオナを出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました、フィオナ・レリングさま」
まずは一番手前に立っている、白髪交じりの細身の男性に話しかけられた。
「私はこの家の家令をしております、トーマスと申します」
ピンと背筋が伸び、無駄のない立ち居振る舞いが美しい。やってきたのがエミリーではなく、フィオナのような華のない娘であっても、態度を崩すことなく丁寧に接してくれる。ただ、彼の挨拶には、こちらの様子を見定めているような雰囲気もあった。
トーマスだけではない。ずらりと並んでいる使用人たちが、どこかフィオナに期待をするような――同時に、不安を抱えているかのような緊張感を持っているのだ。
その理由は明白だ。見合いをはじめて早々に、この屋敷を出ていってしまう令嬢が後を絶たないというのだから。同時に、やってきた娘が供をひとりも連れず、荷物すら持っていないことも訝しんでいるようだ。
(荷物なんて、なにも持たせてもらえなかっただけなんだけど)
とはいえ、彼らが不安に思うのも当然だ。せめて立ち居振る舞いだけは気を付けようと自分に言い聞かせた。
両親が生きていた頃には、ちゃんとした教育を受けていた。だから、振る舞いなら貴族のご令嬢としての及第点を出せる自信はある。
ただ、相手は公爵家。上級貴族相手に自分のマナーが通用するかどうかはわからない。
それでも、フィオナだって進んで追い出されたいわけではない。どうせすぐに放り出されるとは思っているけれど、穏便に済ませたいというのが本音だ。
どんなにひどい言葉を浴びせられ、暴力を振るわれようとも、静かに耐えよう。そう心に決めて、できるだけ美しい立ち方を心がけながら、フィオナはトーマスに視線を向けた。
「セドリックさまがお待ちです。どうぞ、こちらへ」
そうして緊張感を持ったまま、粛々と屋敷の中へ案内された。
予想外だったのは、屋敷に足を踏み入れてすぐにフィオナの心が動いたことだった。
白を基調とした広々とした玄関ホール。大理石の床が美しく、柱ひとつひとつにまで凝った装飾が施されている。その見事なつくりに一瞬にして目を奪われた。
伝統的な紋様が多く、天空を思わせる雲モチーフの装飾が入った柱のほか、細やかな葉や蔓の装飾が壁や天井を彩っている。
さらに正面には背中合わせのオオカミと盾の他に、菫の花と葉の装飾が入ったタペストリーが飾られており、その威風堂々とした佇まいに目を奪われた。ひとつひとつの紋様の美しさもさることながら、まったく形の異なるそれぞれのシンボルが綺麗に調和しており、見事と言うほかない。
(あれはウォルフォード公爵家の紋章ね。気高さがありながらも、どこか優しさも感じるわ)
あの意匠を刺繍するとしたら、どの糸を選ぶだろう。花型装飾はフィオナも得意とするところだが、王道である紋様の美しさに胸を打たれる。この意匠を自らの手で形にしてみたいと強く感じ、気が付いた時には手が勝手に動いていた。宙を縫うように自然と弧を描いており、ハッとする。
だって、久しぶりに刺繍のことを考えた。
ナサニエルたちに責め立てられ、あの狭い部屋に閉じ込められてからも、ずっと手は動かしていた。でも、気持ちは沈んだままで、なんだか硬い殻の中に閉じこもったような感覚でいたのだ。大好きな刺繍をしていても、それに心は伴わない。 こんな図案を縫ってみたいとか、どんな布や糸を使おうとか。以前ならば呼吸するかのごとく妄想してきたことが、ずっとできないでいたのだから。
フィオナは息を呑んだ。
(これまでの自分が、自分じゃなかったみたい)
それにようやく気付けて、胸を撫で下ろす。あの暗くて狭い部屋を出たのだと、今さらながら実感した。久しぶりに自分を取り戻したような感覚すらある。
「フィオナさま?」
「――あ。ごめんなさい。あまりに見事なお屋敷で」
見とれて足を止めてしまっていたらしい。
心が、じくじくしている。まるで氷が解けはじめたように。あるいは、傷が少しずつ癒えはじめたように。ようやく自分の全身に熱が通いはじめた心地がして、安堵して息をつく。
そうするうちに強張っていた表情筋が緩んでいたらしい。フィオナの微笑みを見たトーマスまでもが、なぜか安心したかのように眦を下げた。
「それはよろしゅうございました。後ほど、屋敷をご案内いたしましょう」
優しく呼びかけられると、フィオナの心にトォンと響いた。
なんということのない当たり前の会話であるはずだ。でも、そんな当たり前のことすら、これまでのフィオナは享受できなかった。
(この人が仕えている主人なら、悪い人ではないかもしれない)
これはある種の予感だった。
トーマスの優しさを噛みしめるようにして、ギュッと唇を引き結ぶ。するとトーマスは、なにやら切実そうな色を浮かべて頭を下げた。
「――どうか。どうかセドリックさまを、よろしくお願いいたします。物言いの厳しい方ではありますが、本来とてもお優しい方なのです」
まるでなにかを託すかのようなトーマスの言葉の意味を考えているうちに、目的の部屋へとたどり着いたらしい。
そこは屋敷の玄関ホールにほど近い応接間であった。
フィオナを迎えるために準備されていたようだが、なぜか昼間なのにカーテンは閉じられ、少し薄暗い。
暖炉には火が灯っているし、ランプの光によって部屋全体は見渡せる。贅を凝らした調度品に溢れた部屋ではあるけれど、その奇妙な薄暗さのせいか、足を踏み入れるのを躊躇する。
「我々は席を外すよう申しつけられておりますので」
トーマスが申し訳なさそうに告げる。
まさか相手となるセドリックと一対一で話さなければいけないのだろうか。
緊張で喉がカラカラになりそうだが、もう覚悟は決めた。フィオナはしっかりと瞳に光を宿し、大きく頷く。そしてひとり応接間へと足を踏み入れた。
カツカツと足音が聞こえてきて、フィオナは体を強張らせた。ソファーから立ち上がり、入口のドアの方へと目を向ける。
(いらっしゃったわね)
冷酷だと噂の次期公爵との対面を前にして、思いのほか緊張しているらしい。カタカタと自分が震えていることを自覚する。どうにか気持ちを落ち着けようと、静かに、そして深く呼吸する。
そうして現れた男を目にした瞬間、フィオナの震えはピタリと止まった。
噂以上だと素直に思った。
艶やかな黒髪に高貴な菫色の瞳。陶器のような滑らかな肌に、すっと通った鼻筋。薄い唇は形がよく、その表情の冷ややかさすら彼の美貌に馴染んでいる。
見目のよい殿方だとは聞いていたが、ここまで整った顔立ちの人をフィオナは見たことがなかった。
男性らしい均整の取れた体つきに、すらりと長い手足が紺色のコートに映える。圧倒されるほどの美しさを誇る彼こそが、次期公爵と名高いフィオナのお相手なのだろう。
男はフィオナを一瞥してから、部屋の中へと歩いてくる。
彼自ら、小さな瓶やらペンやらが詰められた木箱を抱えてきたらしい。その左手の薬指にきらりと光る古びた指輪を見つけ、フィオナは瞬いた。ああ、噂は本当だったのかと。
どうもその白金の指輪には、彼の瞳と同じ菫色の石がひとつついているようだった。見間違いでなければ、その石がなぜか淡く発光しているような気がする。 ぱちぱちと瞬いているうちに、男はフィオナの向かいの席の前に立った。
そこで、ぱたんとドアの閉まる音がする。トーマスか誰かがドアを閉めたのだろう。
いよいよ男とふたりきり、フィオナはこの薄暗い応接間に閉じ込められた。
「セドリック・ウォルフォードだ」
自己紹介は簡潔極まりなかった。どう考えても見合いの挨拶とは思えない。けれど、そんなことをいちいち気にしていられない。
「レリング伯爵家、前当主が長女フィオナ・レリングと申します。お目にかかれて光栄です」
丁寧にカーテシーをし、彼の目配せを合図にソファーに腰かける。ローテーブルを挟んで彼と向かい合う形になり、緊張で身を固くする。
セドリックは手にしていた木箱をことりとテーブルの上に置く。それから一切表情を変えずに、静かにフィオナを見つめて語り聞かせた。
「最初に言っておく。これから話すことは他言無用だ。誰にも話さぬよう契約魔法を結ばせてもらう。それすら呑み込めぬようなら、今すぐこの屋敷を出ていってもらおう。――どうする、フィオナ・レリング」
「契約魔法?」
まさかの提案に、フィオナは困惑した。
噂では聞いたことがあるものの、実際に契約魔法を結ぶことなど初めてだ。というよりも、魔法自体、フィオナにはあまり馴染みのないものだった。
魔力は生きとし生けるものすべてが授かる、生命活動に必要なものである。魔力が体内を廻ることで、人の体は正しく機能するのだ。
ただし、数万人にひとりほどの割合で、莫大な魔力を持つ人間がいるという。彼らは魔力を体外に放出する際、なんらかの不思議な効果を生み出せるというのだ。
そういった特別な才能を持つ者のことを、人々は魔法使いと呼んだ。
魔法使いはその才が見つかり次第、王都に集められる。これは大変名誉なことで、彼らは鍛練を積んだ後、そのほとんどが魔法省に所属するのだとか。
遠い昔、フィオナも何度か魔法省の人間を目にしたことがある。彼らは国に雇われて、年に一度、各村々を廻っているようだった。
当然、レリング領にもやってきていた。広場に子供たちを集めて、なにもないところから水や炎を発生させたり、物を浮かせたり。フィオナもそれを遠目に見て、自分にも魔法が使えたらと憧れたものだった。もちろん、フィオナにはそんな才能などなかったけれども。
彼らの魔法はまるで大道芸のようにも見えた。でも、今考えると本来の目的は別にあったのだろう。
ああやって魔法を周知して回り、その才能を持った人間を探していた。街での活動が終わると、いつもフィオナの屋敷にやってきて、当時の領主であった父となんらかの会談をしていたようだったし。
とはいえ、フィオナがすべてを奪われ、離れに押し込められるようになってからは、彼らを目にする機会もなくなっていた。
魔法使いたちが、普段どのような活動をしているのかは知らない。ただ、フィオナには縁のないものだし、今後もそうだと思っていた。
けれど、ここにきて契約魔法とは。魔法によって契約を破れなくする手段らしいが、相当重要な取引にしか使用されないものだと聞いている。
「この契約魔法は魔法省『七芒』アラン・ノルブライトの名でもって成立するものである」
そう言ってセドリックは、箱の中から一枚の紙を差し出した。他言無用であるという文面の後、確かにアラン・ノルブライトという人物のサインと血判がある。
アラン・ノルブライトと言えば、この国で有数の魔法使いで、セドリックと同じく王太子の側近のひとりのはず。
七芒というのは魔法省の位で、その頂点に立つ創主、次位の三輝に次ぐ第三位。わずか七名の人間にしか与えられないという稀少な称号だ。魔法省全体でも十指に入るという非常に優秀な魔法使いである。
魔法使いというだけでも驚きなのに、そんな雲の上の人物まで関わってくるだなんて。
「誓いを破れば、破った者に確実に大きな災いが訪れる。身体能力の損傷――五感を失うというのが定説だな。実際、以前契約魔法を破った輩は声を失った」
「……っ」
どんな話をされようと、契約を破るつもりはない。けれど、出会って早々にこんなにも重たい話をされるとは。声を失うなど相当なことではないだろうか。
(なるほど、これは……)
これを聞いた時点で、引き返す令嬢は多いだろう。
そもそも、なにを聞かされるかすらわからないのに、それを漏らせば身体能力の損傷に繋がると聞いて、話を聞きたがる女性は多くないはずだ。
フィオナはごくりと唾を飲み込む。
「さあ、どうする」
「もちろんうかがいます」
それでもはっきり答えると、セドリックは意外とでも言うかのように片眉を上げた。
「――そうか。わかった」
ふむ、と頷き、彼はまじまじとフィオナを見た。興味深そうにじっくり観察され、どことなく居心地が悪い。けれど、フィオナは大人しくしていることしかできない。
「では、最初に言っておく。次期公爵とは言われているが、私に公爵家を継ぐつもりはない」
「え?」
さすがに予想しなかった言葉を告げられ、フィオナは瞬いた。
「どうだ? 私の身分や財産に期待していたのなら、婚姻などやめておけ。わざわざ王都までやってきたというのに、残念だったな」
まるでフィオナが身分や財産目的であると決めつけるかのごとく、セドリックは冷たく言い放つ。
(もしかして、これを聞いてがっかりした女性が多かったのかしら……?)
彼の言葉に戸惑いはする。けれど、フィオナは別の意味で困惑していた。
「それは、全然構わないのですが……あの、それだけですか?」
「は?」
つい口をついて出た言葉に、セドリックが目を見張る。
てっきり噂の恋人の話でもされるのかと思っていた。もちろん、恋人がいようがいまいがフィオナにはなんの問題もないけれど。
どうせこの婚姻は成立しないだろうし、口外無用を言い渡されるのであれば、秘密にしやすい内容の方が気持ちが楽だ。恋人の話は、色んな人が根掘り葉掘り聞きたがるだろう。だから、その話でなくてよかったと胸を撫で下ろす。
誰もがセドリックこそ次期公爵であると信じて疑わない。わざわざ訊ねられるような内容でもないだろう。なんとも背負いやすい秘密でホッとする。
それが表情に出てしまったのだろう。セドリックが面食らったような顔をして、こちらを見つめていた。
「あ。――その、申し訳ありません。なにを仰るのかとドキドキしておりましたので。お話をうかがって、少しホッとしました」
「ホッとするのか? これが?」
「ええ。なにも問題ありません」
「問題、ないのか? 本当に?」
「はい。正直、秘密にしやすくて助かります」
安心してもらえるように大きく頷いてみせると、セドリックは頬を引きつらせた。だが、すぐにもとの厳しい表情に戻り、話を続ける。
「では、もうひとつの条件だ。婚姻を結んだとして、二年で離縁してもらうと言えば?」
「二年で?」
「ああ、そうだ。君は二年後、公爵家の嫁としての身分を失う。――もちろん、こちらの都合で離縁してもらうのだ。再婚相手を探すなり慰謝料を払うなり、それなりの保障はしよう」
「え?」
先ほど以上に衝撃的な提案に、フィオナは完全に固まった。
(え? あれ? それってつまり――)
彼が提示した条件の前に、情報を整理しなければならない。
そもそも論から訊ねてもいいのだろうか。
つい物言いたげな目を向けると、セドリックはフンと鼻で笑う。
「まあ、二年を棒に振り、離縁などという不名誉を背負い込むなどごめんだろうがな」
どうせこれで折れるのだろうとでも言いたそうだ。 でも、正直フィオナが引っかかっているのはそこではない。
「……ウォルフォードさま。失礼ながら、ひとつうかがってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの」
あまりに失礼なことすぎて言い淀む。
けれど、大前提を確認しないと話を前に進められない。
「ウォルフォードさまは、それらの条件にわたしが頷けば、本当にわたしと結婚なさるおつもりなのですか?」
「は?」
つまり、そもそも誰かと結婚するつもりがあるのかということである。
彼も予想だにしていなかった質問だったらしい。綺麗な顔がピシリと固まった。それから珍獣でも眺めるように、まじまじとフィオナを見つめてくる。
(すごい。……わたしなんかの質問に、なんだかとっても真剣に考えていらっしゃる)
考えなしに訊ねてしまって、申し訳ないくらいだ。
でも、フィオナは異なる意味で安堵もした。
冷酷で、婚姻予定の相手に暴力を振るうような男性だと聞いていたが、そんな雰囲気はこれっぽっちもない。確かに言葉は厳しく聞こえるが、冷酷というよりも端的という印象だった。
飾り言葉が得意な令嬢にとっては恐ろしい相手なのかもしれないが、フィオナにとってはなんということもない。というよりも、真意を理解しやすくて案外話しやすいかもしれない。
「君は、私と見合いをするためにここに来たのでは?」
「それは、そうなのですが。――失礼を承知で申し上げると、てっきり追い出されるものなのだと」
「なにが悲しくて追い出す前提で見合いをしなければいけないのだ。互いに時間の無駄だろう」
「すみません」
「いや。――私も、逃げ出される前提で話しているところもあった。それは詫びよう」
(ほら、こういうところ)
少し気まずそうに、目を背けているあたり人間味がある。
それに、この人にはフィオナに対する悪意がない。
最初こそ見定めるような目を向けてきたし、フィオナが普通の令嬢ではないことなどすでにお見通しだろう。それでも、あくまで見合い相手として見てくれていたらしい。
「私が身を固めないかぎり、王妃陛下の計らいで、すべての貴族女性と見合いさせられそうな勢いでな。――君には悪いが、二年間、その盾になってもらいたい」
「盾……」
なるほど。彼の思惑は理解した。
結婚を望まぬ彼にとって、名ばかりの妻が必要ということらしい。
「よかれと思って取りなしてもらえるのはありがたいが、私にこの家を継ぐつもりはない。だから本物の妻など不要なのだ」
妻の役割を考えると、確かに公爵家を継ぐつもりのない彼にとって必要ないのかもしれない。もし、結婚した女性に愛することを強要されたら困るだろう。さらにその女性との間に跡取りなど生まれてしまったら大変だ。それが彼の目的にとって足枷(かせ)になるからだ。
フィオナはそっと、彼の左手薬指に光る指輪に目を向けた。彼の真の目的を考えると、妻という存在自体が邪魔なのだろう。――誤解されてしまっては困るだろうし。
「事情は理解しました」
「そうか。話が早くて助かる」
「つまり、二年後に意中の女性と結婚なさる算段がおありで、それまで時間稼ぎをしろと」
瞬間、彼が両目を見開いた。
しばしの沈黙。パチパチパチと、暖炉の火の音が妙に大きく聞こえる。
「……は?」
セドリックは明らかに動揺しているようで、完全に固まっている。なるほど、まさかフィオナの方からその話を持ちかけるとは思わなかったのだろう。
彼の感情がここまではっきり顔に出るのは初めてで、フィオナは納得した。
(よほど大切な方なんだわ)
周囲になんと言われようとも、一切外されることのない指輪。外聞を気にせず堂々と身につけているなど、相当な覚悟と決意が必要だろう。
(お相手の女性は、愛されているのね)
いらぬものとして扱われているフィオナとは大違いだ。
フィオナは目を伏せた。心を落ち着けて、自分の心の中でひとつの結論にたどり着く。
(だったら、わたしの取るべき行動はひとつね)
お飾りの妻として余計なことはしないように、屋敷の奥でひっそりと過ごせばいい。それはフィオナにとって難しくないことだ。
フィオナは大きく頷いた。なんだか気持ちが軽くなって、にっこりと笑ってみせる。
「大丈夫です、わきまえております」
「は? いや、君はなにを……?」
セドリックは狼狽しているようだけれど、安心してほしい。フィオナは彼らの邪魔立てなどしない。
突きつけられた条件は、確かに普通の貴族令嬢にとっては受け入れがたいものだろう。 とはいえ、彼に恋人がいたところで、フィオナにはなんの問題もない。むしろ都合がいいくらいだ。フィオナが自分の立場をわきまえるためにも、よい抑止力になるだろう。距離感を間違えないよう、常に意識をしていればいいだけのこと。
それさえ気を付けていれば、二年の間、衣食住に困ることがない。そして契約を全うした暁には、それなりの保障をしてもらえるのだから。
(ありがたいことね)
未来が開けていく心地がした。
フィオナに再婚相手は不要なので、できれば金銭でお願いしたいところだ。あのセドリック・ウォルフォードが約束してくれるのだから、独り立ちするには十分だろう。
「わたしはウォルフォードさまの事情を隠すための、仮初めの妻ということですね」
「それは、そうなのだが」
とんとんとん、とセドリックがこめかみを何度か叩(たた)いている。眉間に皺(しわ)を寄せてたっぷり考え込んだ後、こほんと咳払いをした。
「まあいい。とにかく、この条件が呑めるなら君と結婚する。ただし――」
彼は自ら、そっと左手の指輪に触れた。先ほどフィオナが彼の指輪を見ていたことに気がついていたようだ。
「この指輪は私に必要なものだから外さない。それだけだからな、勘違いせぬように。――ああ。だから揃いの結婚指輪は作れない。これも条件に入れてもらおう」
彼は短く話を切り、有無を言わせず了承させられる。
(なるほど、これ以上詮索するなってことね)
はっきりと頷いてみせると、彼はしばらく黙り込み、ゆっくりと目を伏せた。愁いに満ちた様子で眉根を寄せ、菫色の瞳に暗い色を灯す。
「――二年後、弟のライナスが成人する。その際、私はあいつに次期公爵の座を譲り渡したいんだ。そのためにも子を成すつもりはない。だから、私に愛されることは期待しないでほしい」
フィオナの胸の奥が、とくんと静かに音を立てる。
(この表情――)
彼が家族を領地に閉じ込めているという噂は知っている。
でも、今の条件を聞いて、その噂も嘘なのかもしれないと思った。だって彼は家族を心配し、慈しむような表情をしていたから。
(恋人のことも、ご家族のことも。それぞれ深く考えていらっしゃるんだわ)
噂と違って愛情深い人かもしれない。二年という時を費やして彼の役に立てるのは、純粋に喜ばしく感じた。
「承知しました。では二年、ウォルフォードさまが納得できる形で契約を。わたしが相手でもよろしければ」 「そうか、了承してくれるか。――感謝する。それで?」
突然話を振られるも、意味がわからずに首を傾げる。
そんなフィオナの察しの悪さに呆れるわけでもなく、彼は淡々と続けた。
「君には要望はないのか?」
「え?」
こちらの要望も聞き入れてくれるとは思わず、驚きでぽかんと口を開ける。すると彼は怪訝そうな顔つきで片眉を上げた。
「これでは、私が一方的に要望を押しつけただけではないか。これは取引だ。君にも利があって然るべきだろう?」
まさかの提案にフィオナは息を呑む。
(私の話まで、聞いてくださるんだ)
胸の奥がじわりと熱くなる。彼の言葉は、傷だらけのフィオナの心に温かく沁(し)みた。少しだけ目頭が熱い。涙がこぼれぬよう我慢しながら、フィオナは口角を上げた。
彼にとってはなにげない言葉だったのかもしれない。でも、フィオナにとっては温かく、眩しい。
(真摯でいよう)
これから先、彼に対して。そして彼の示してくれる誠意にしっかり応えよう。
たった二年間の仮初めの婚姻だ。
彼は自分の要望を一方的に押しつけただけだと言ったけれど、その言葉の向こうにセドリックの誠実さを感じた。トーマスは、彼のことを『物言いの厳しい方ではありますが、本来とてもお優しい方なのです』と言った。
今、フィオナも、セドリックに対して同じ印象を持った。
二年間、この優しい人のために尽くそう。そう決めた。
「それで? なにかないのか?」
「契約魔法で縛らなくてはならないようなことは、なにも」
セドリックは驚くように息を呑む。フィオナの言葉の真意を知りたいのか、話を促すように身を乗り出す。
でも、フィオナの伝えたいことはシンプルだ。呼吸を整え、真っ直ぐに伝える。
「わたし、フィオナ・レリングはウォルフォードさまを信用いたします」
「……そうか」
セドリックは噛みしめるように呟いた。それから口元を押さえ、そっと視線を横に向ける。
「君は、少し甘いところがあるな」
「そうかもしれませんね。公爵家に嫁入りするなど、本来分不相応な娘です。だから特別なことなど望みません」
「それは」
セドリックがなにか言いたげにこちらを見る。しかしそれはわずかの間で、すぐにふるふると首を横に振った。
「いや。しかし、契約魔法まで結ぶのだ。一方的すぎるのは私も気が引ける。なんでもいい。要望は先に言ってくれ」
言わないと先には進めなそうな勢いだ。
さすがにフィオナも折れて、では、とおずおずと伝えるに至った。
「先ほど仰った二年後のことですが。再婚相手は探さなくて結構ですので、できれば、その――」
「なんでも言え」
「……お金、を」
声が尻すぼみになってしまう。仮にも貴族の娘が直接金銭をねだるのはどうかとも思うが、セドリックはしっかりと頷いてくれた。
「かまわない。では、五千万ティオでどうだろう」
「ご、五千万!?」
驚きの数字に、フィオナは素っ頓狂な声をあげる。聞いたこともないような金額だ。平民として生きていくならば、一生お金に困らないほどの金額ではある。
「少なかっただろうか。では――」
「違います! 多すぎます! 身を滅ぼしかねないので、もう少し減らしていただけると!」
これ以上金額をつり上げられてはたまらない。
叔父一家に見つからないようにひっそりと生きたいだけなのだ。多すぎる現金を持たされると、逆に心配事が増える。
ひっそりと慎ましく暮らすつもりではあるが、ナサニエルのような勘の鋭い人間というのは存在する。フィオナがお金を持っていることを嗅ぎつけて、変な人間に目をつけられる可能性は考えておくべきだ。強盗などの心配もしなくてはならないだろうし、かといって警備の者を雇うのも、それはそれで目立ってしまう。
だからといって生きていくために最低限の金額をお願いすれば、セドリックに怪しまれる可能性もある。
さて、どうしたものだろう。
(二年後は市井の人に紛れて生きていきます、なんて言えるはずがないし……)
これまでの少ない会話からもわかる。彼はどちらかというと義理堅く、真面目な性格なのだろう。二年後、フィオナが平民になったことを知ったら、彼は心を痛めるかもしれない。
こんなによくしてもらうのだ。彼に変な心の枷をつけたくない。だから彼にも見つからないように、ひっそりと生きる方法も考えなければ。
「君の二年という時間をもらうのだ。私はそこに五千万ティオの価値があると思ったからこそ、提案したのだが?」
それを否定するのかと言わんばかりに、彼の視線が鋭くなる。頑なな様子で、彼が金額を引き下げてくれる雰囲気はなさそうだ。
フィオナは頭を悩ませた。
(どうしよう。受け取り方を変えてもらうとか……いっそ、寄付に回すのもありね。二年もあるから方法はゆっくり考えよう)
問題を先送りするのは得意だ。だからフィオナは覚悟を決めて、大きく頷いてみせた。
「わかりました。仰る通りの金額でお願いします。でも、二年後――たとえば受け渡しを幾度かに分けるなど、受け取り方法を指定させていただいてもよろしいですか?」
フィオナの提案に対して、セドリックは鷹揚に頷いた。
「もちろん問題ない。君の希望に沿うように取り計らおう」
「ありがとうございます。でしたら、他に要望はございません」
「そうか。では、今の内容を書き足そう」
そう言って彼は、木箱の中からもう一枚の紙を取り出した。
最初に見せられたのは、彼の事情を他言無用にするための契約書であったはず。そこには、どの話題を口に出してはならないか、つらつらと書き連ねてある。
それとは別にもう一枚、彼は事前に契約書を用意していたらしい。
――セドリックは公爵家を継ぐつもりはなく、それを認めること。
――二年後に離縁すること。
――子を成す行為はしないこと。
そして最後に、離縁の際、フィオナに五千万ティオを支払うこと。なお、その手段については本人と協議の末決めると書き足してもらった。
カッチリとした硬質な字で自分の名前を書き、セドリックはフィオナに視線を向ける。
「次は君だ」
言われるままに、フィオナは二枚の契約書それぞれに自分の名前を綴った。
セドリックはフィオナのサインを検(あらた)め、文面をもう一度確認する。不備はないようで大きく頷くと、その二枚の紙をテーブルの上に置いた。
「では、契約魔法を結ぼう」
迷いなくそう告げるセドリックに対し、フィオナは小首を傾げる。
「ウォルフォードさまも魔法が使えるのですか?」
「いや」
フィオナの質問に彼は首を横に振りながら、持ってきた箱から小さな瓶を手に取った。
「この瓶の中に、アラン・ノルブライトの魔力を液状化してもらっている。私自身が魔法を使えずとも――」
セドリックがその瓶の蓋を取った瞬間、入っていた透明の液体が黄金色に発光した。
「アランの魔力をかければ、契約魔法は発動する」
「わ、あ……っ!」
薄暗い部屋の中だからこそ、その黄金色はより煌々と輝いた。不思議な光景にうっとりと見とれてしまう。
「とはいえ、他人の魔力だからな。余計な力が混じらぬよう、日光の影響を受けないようにするんだ」
そう教えてくれながら、彼は輝く液体を二枚の紙に向かって流し込むように傾けた。
ざあああ、と黄金色の液体が二枚の紙に流れ込む。その液体はこぼれることなく、みるみるうちに紙に吸収されていく。
瓶の中身が空になる頃には、二枚の紙は黄金色に染まり、紙自体が発光していた。
「本来、契約魔法を結ぶ際には、本人も見届けるべきなのだが――まあ、適当な男でな。普段からこうして、彼の魔力を預けられているわけだ」
文言を書き足した先ほどの様子を考えても、契約内容すらも任せられているのだろう。契約魔法というのはかなり重要な契約だと思うのだが、アランという人はそれすらも気にしない剛胆な性格のようだ。
「あとは互いの血判を押せば、契約完了だ」
そう言いながら、セドリックは箱から小型のナイフを取り出した。慣れた手つきで左手の親指を切り、二枚それぞれに血判を押す。
思った以上にしっかりと傷をつけていて、フィオナは頬を引きつらせた。
「――ああ、心配しなくていい。私は血に魔力が滲みにくい体質でな。多めに血液が必要なんだ。君はここまでしなくても大丈夫だ」
曰く、どのような人間でも血には微量の魔力が含まれているのだとか。そして、契約魔法には本人登録のために、その魔力が必要らしい。
言葉通り彼はすぐにナイフを仕舞ってしまう。代わりに小さな針を取り出した。
「左手を貸してくれ」
確かに針なら怖くはない。でも、フィオナは躊躇した。
「痛くはしない。怖いなら、目をつぶっておくといい」
契約を結ばないと前には進めない。だから手を出さないわけにはいかない。
フィオナは静かに息をついた。それから意を決して、ゆっくりと左手の手袋を外した。ぼろぼろで、針すらも必要ないのではと思えるほど、無数のあかぎれができた労働者の手が現れる。
事情があることくらい、とっくにバレているだろう。それでも、令嬢らしからぬこの手を見られることは憚られた。
彼が差し出してくれた手に、恐る恐る労働者の手をのせる。彼は一瞬目を見張るも、すぐにいつもの無表情に戻った。
「怖がる必要はない。すぐに終わる」
「大丈夫です」
「――そうか」
チクリとした痛みは一瞬だった。
彼はその手を、契約書にあるフィオナのサインの横に押しつける。少し手を離し、もう一度血がぷくりと溢れるのを待ってから、もう一枚も。
そうしてフィオナが血判を押した瞬間、二枚の紙はふんわりと発光し――やがて集束していく。ふたり分の血判が黄金色に変わり、紙自体はもとの白に戻っていた。
彼は血がつくのも厭わず、自分のハンカチーフでフィオナの指を押さえる。
「ウォルフォードさま、せっかくのハンカチーフが汚れてしまいます!」
傷痕はどこなのかわからないほどで、すぐに血は止まった。放っておいても構わない程度のものだ。むしろ、ざっくりと指を切っていた彼こそ止血すべきではないだろうか。
「問題ない。それより、これで契約は完了だ」
有無を言わせず彼はフィオナの指先を確認してから、大きく頷く。
「私としてはいつ入籍しても構わない。ただ、できるならば早めに。それから規模は小さめに済ませたいのだが」 なんの規模かというと、おそらく結婚の挨拶や結婚式のことだろう。
「ウォルフォードさまのご希望に従います」
「助かる。では、これからよろしく頼む。――フィオナ」
そこで初めてちゃんと名前で呼ばれた。
どきりと胸が高鳴り、反射的に握られていた手を引っ込めた。
胸の前で荒れた左手を右手で隠すように覆ってから、ごくりと唾を飲み込む。
二年間限定の仮初めの婚姻。役割は、彼のお飾りの妻に徹すること。
自分の立場を再確認し、はっきりと宣言する。
「はい。精いっぱい務めます。その――」
名前を呼ぼうとして、はたと固まった。
(セドリックさまとお呼びしていいのかしら? でも――)
どことなく憚られる。どうせ二年後に離縁するのだ。だから踏み込みすぎないようにするべきだろう。距離感を考え、フィオナはひとつの答えにたどり着いた。
「旦那さま?」
「……っ」
セドリックは面食らったような顔をして、視線を逸らした。ああ、と掠(かす)れた声で返事があったから、この呼び名でいいのだろう。ホッとして、フィオナは頬を緩めた。
「ひとまず、家の者に君を紹介することにしよう」
そう言ってセドリックは立ち上がり、フィオナにそっと手を差し出した。
(そっか。エスコート)
ぱちぱちと瞬いてから、フィオナもゆっくりと立ち上がる。淑女らしさを意識して、たおやかな物腰で彼に応えた。
導かれるままに応接間を出る。そしてセドリックは、そわそわした様子のトーマスを呼び止めた。使用人たちを召集するということは――と、膨らむ期待に表情を明るくしたトーマスは、すぐに全員を呼び集めた。
屋敷全体がにわかに騒がしくなり、急いで集まってきた使用人たちに対し、セドリックが宣言する。
「紹介しよう。レリング伯爵家のご令嬢フィオナ・レリング嬢だ。彼女がこの家の女主人になることが決まった。よく仕えるように」
瞬間、わっと明るい歓声が皆の口から飛び出したのだった。

