『愛獣』放埓な副社長は堅固な秘書を攻め落とす
プロローグ

「アイス珈琲を」
「アイス珈琲ですね。少々お待ち下さい」

太陽から降り注ぐギラギラとした夏の陽ざしを避けるように、穏やかなBGMが流れるカフェに避難した俺(仁科(にしな)(きょう)二十一歳・大学三年)はTシャツの襟を少し翻して、体に籠る熱を放散させていた、その時。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五…」

突然、どこからともなく般若心経を唱える声が聞こえて来た。
カフェ内を見回すと、数席離れたテーブルに座る女性が唱えている。
それも、恐ろしく真剣な表情で。

「え、……何してるんですか?」
「私、霊感が人並み外れているので、私の周りに霊が寄って来るんですよ。心を穏やかにしないとならなくて…」
「は?」

女性と向き合う形で座る男性は、突然唱え始めた般若心経に驚くというより、その女性の言葉に驚いて硬直した。

「蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空異色…」

尚も続けられる般若心経。
異次元の世界と会話するかのように唱え続けて。

「それって、……いつもですか?」
「はい、毎日ですけど。それが何か?」
「っ……」
「あ、……今、あなたの左隣りに頭から血を流してる女性が座りました。色即是空空即是色受想行識…」
「ひっ……、すっ、すみませんっ!このお話、無かったことにっ……本当に申し訳ありませんっ」

霊が見えるというその女性は、男の言葉も気にせず唱え続けている。
女性の言葉に完全に怖気づいた男性は、逃げるようにその場を立ち去った。

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