その涙が、やさしい雨に変わるまで

9*三琴、オファーをもらう

「松田さーん、こっち、こっち!」

 春奈が店入り口の三琴を見つけて、手を振った。
 あとから合流という形を取って、三琴は『真サ(まさ)』という小料理屋を訪れた。表通りから一本裏に入る、ぱっと見、店とはわからない隠れ屋的な小料理屋だ。バラ園のアルバイトのきっかけとなったカジュアル創作居酒屋『四季祭』よりもぐんと和風で落ち着いた雰囲気の店である。
 今ここで脩也のメンバーが『撮影会打ち上げ』を行っている。あの賑やかなフォトグラファーの面々が集う店にしては、渋い。とにかく渋い。

「すみません、遅れてしまいました」
「いーよ、いーよ。松田ちゃんは勤め人だから」
と挨拶もそこそこ、脩也が三琴を春奈の元へ誘導する。いわれるがままに三琴は春奈の隣に座った。

「さー、どれにする?」
 春奈がまずはと、ドリンクメニューを差し出した。
「じゃあ、ビール。せっかくだから、地ビールにしようかな?」

 入り口を通り抜けたときから思っていたが、なんとなく店の雰囲気からこだわり銘酒が揃っていそうな気がする。案の定、それは地酒だけでなくビールにも及んでいた。
 別刷りのメニュー表から、三琴はあえて飲んだことのない銘柄にする。
 つい数時間前に副社長室前室で瑞樹と喧嘩別れみたいなこととなったのだが、三琴としてはさっさとその記憶を消し去りたい。記憶を上書きするには未知なる体験が有効と考えて、この選択である。

「それね、さっき脩也さんが頼んだんだけど、独特の苦みで美味しいって」
「そうなんだ! それは期待大。楽しみ」
pagetop