その涙が、やさしい雨に変わるまで
 業務終了後、三琴は制服のまま副社長室へ向かった。
 一ヶ月前まで、三琴は瑞樹のいる高層階フロアの住人であった。
 かつての古巣、副社長室前室に向かっている今の三琴の心境は、面接試験にきた就活学生のようでドキドキだ。

(いや、就活学生とはちょっと違うか?)
(ミスをして取引先に謝罪にいく営業スタッフの気分のほうに近いかも) 
(どちらにしても、緊張しかないわよね)

 受付部門に配属となって以来、三琴はずっと受付カウンターやバックヤードから瑞樹のことをみていた。瑞樹にわからないようにして、他の受付嬢にも気づかれないようにして。
 一日に何回も瑞樹の姿を拝める日があれば、一度もみることなく業務終了となる日もある。未練たらしいと思いながらも、帰宅してからその日一日の瑞樹の姿や仕草を思い出して一喜一憂する三琴がいた。
 秘書を辞めてからの三琴は、まるで殿下を慕う一国民のよう。遠くから瑞樹を見つめるだけだった。

 正直にいう、午後からの受付業務中に瑞樹からお呼びがかかって驚いた。
 驚くと同時に、三琴は嬉しくも思った。副社長室へいけば遠くからみるだけでなく、瑞樹と同じ部屋で同じ空気を吸えるのだ。ずっと近いところに瑞樹がいる。
 かつては一緒に仕事をした上司のことをグランドフロアの片隅で眺めるだけの日々を過ごしていれば、この呼び出しは推しのミュージシャンのコンサートにいく感覚だ。

 瑞樹のことが嫌いになって姿を消したのではない。自分の余計な感情で彼の結婚に波風を立てることがないようにと、三琴は身を引いたのだ。
 そう、嫌いなんかじゃない。今でも三琴は瑞樹のことが好きである。

 呼び出しの内容は、きっと引き継ぎ忘れた事項についてだろう。菱刈だって確認したいことがあるといっていたし、きっと、そう。それに尽きる。
 いざ瑞樹と対面したなら懐かしさや嬉しさに流されないように、長すぎず短すぎずの会話にとどめて副社長室をお暇しよう。エレベーターの中で浮かれ気分を自制して、三琴は呼吸を整える。
 ポーンと軽いチャイム音がして、扉が開いた。乗り込んだときには数人の社員がいたが、この高層階フロアまで乗っていたのは、三琴ひとりとなっていた。

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