3121号室の狼〜孤高な冷徹御曹司の愛に溺れるまで〜
「ここに来るのは小学生以来初めてなんだ」

すると、思いもよらない彼の返答に私は一瞬目が点になってしまう。

「始めは何回か行っていたけど、段々と闇に堕ちていくうちにそんな気も失せて……。母親は常に俺の幸せを願っていたから、合わせる顔がなくて、気付けばこんなに放置させたから……」

そうポツリポツリと申し訳なさそうに胸の内を明かしてくれた楓さんの表情はとても悲しげで。そこから彼が今までどれ程苦しんでいたのかがよく伝わってきた気がして、居た堪れなくなった私は彼の腕にぎゅっと抱きついた。

「大丈夫です。何年経っても楓さんの顔を見ればきっとお母様は喜んでくれます。だから、そんな顔しないで下さい。せっかくの結婚報告なのに、それでは心配されますよ」

こうして再びお母様の元へと来れるようになれたのだから、もっと胸を張って欲しくて。私は少し厳しめの口調で指摘すると、楓さんはそんな私を暫く黙って見つめる。

「…………そうだな」

それからふと口元を緩ませて小さく笑うと、軽く深呼吸をしてから、意を決したように拳を握り締めて一歩足を踏み出した。

そして、黙ったまま楓さんは狭い墓地の奥を突き進むと、突き当たりにある小さな墓石の前で立ち止まった。そこには花も何も飾られていないけど、十年以上放置されていた割には綺麗に保たれていて、中央には“市原家”という文字が彫られている。

これが楓さんの以前の名前。
市原楓だった時は、きっと周りの子供達と同じようによく笑う明るい子だったのでしょう。
そう思うと胸が締め付けられる想いに駆られ、暗い顔をするなと言ったくせに自分までそうなってしまいそうになり、私は気を取り直して呆然と墓石の前で立ち尽くす彼の側に近寄る。

十数年ぶりの対面に、楓さんは今一体何を想っているのでしょう。
申し訳ない気持ち、寂しい気持ち、嬉しい気持ち。
きっと色々な感情と記憶が交差して、上手く整理がつかないのかもしれない。
だから、彼が動き始めるまでは、私はじっと隣で見守って待つことにした。

すると、楓さんは持っていた布袋からあのお酒と、ガラスで出来た掌サイズの小さなグラスを取り出して墓石の前に置くと、徐に注ぎ始めた。

お母様が大好きだったと言っていたシャンパン。
大人になって楓さんが唯一心の拠り所にしていたもの。
それをここで黙々と捧げる彼の背中を眺めていると、今度はお線香を取り出して持っていたライターで火をつけてから、まるで新品のように綺麗な香炉の中に置いて手を合わせる。
私もそれに順じて、静かに手を合わせてお母様に祈りを捧げた。
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