元彼専務の十年愛
颯太の声はさっきよりも低く、静かながらも怒りを感じる。

「彼女を侮辱するのはやめてもらおう。セクハラで訴えられなかっただけまだよかったと思ったほうがいい」
「なんだよ、俺はセクハラなんてしてな——」
「徹底的に調べ上げてもいいんだぞ。芋づる式に他の悪事も出てくるかもしれないな。店の金を着服して女性を連れ込むためのマンションを借りていた、とか。オーナーやあんたの妻にバレたらどうなるだろうね」

着服?妻?店長、奥さんがいたの?
疑問符が頭を回り、話についていけない。
店長は口を開けて絶句している。

「忠告はしたぞ。今度彼女に近づいたらこちらも黙っていない」

店長は唇を噛み、踵を返して逃げ去って行った。
その背中を見ながら、強張っていた体の力が抜けていく。
腕を離した颯太が、控え目に私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か?」
「うん。どうして店長のこと…」
「兼業の件で調べた。大ごとにしないほうがいいと思ったが、ちゃんと牽制しておけばよかったな。でも、あれだけ言っておけばもう心配ないだろう」

颯太は「行こうか」と微笑み、ゆっくりと歩き出す。
息をのんだ。
再会してから、こんなにやわらかく温かい表情は初めて見た。
…私のことを安心させようとしてくれたんだ。
胸が熱くなって、思わずシャツの裾を引っ張った。

「颯太、ありがとう」

驚いたようにこちらを振り返った颯太が、照れくさそうに眉尻を下げる。

「名前呼ばれるの、久しぶりだな」

言われてから気づいた。
再会してから颯太の名前をちゃんと呼ぶのは初めてなのだ。

『恋人なんだから、名前で呼んでよ』
『えっでも恥ずかしい…』
『いつまでも先輩呼ばわりじゃよそよそしいだろ。ほら、颯太って呼んで』
『……颯太』
『……』
『…先輩、顔真っ赤です』
『いや、なんか…嬉しいような照れくさいような』

湧き出てきた記憶に切なくなって俯いた。
恥ずかしがっていると思ったのか、上からくすりとやさしい呼吸が降ってくる。
私が知っている颯太が確かにそこにいるのを感じて、無性に泣きたくなった。

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