月がてらす道

 「これが注文ソフトな。起動させたらIDとパスワード入力してログイン。そしたら発注画面が出てくるから」
 「えっと並木(なみき)さん、IDとパスワードって?」
 「ああ、後で下のシステム課行ってさ、もらってきて。主任の須田さんに言えばわかるはずだから」
 「須田さんですね」
 復唱しながら、一瞬、その名前が記憶に引っかかった。……けれど、違うだろうとすぐに隅へ押しやる。まさかそんな偶然はないだろう、と。
 並木の一通りの説明が終わり、一息ついた尚隆は隣席の同僚にシステム課の場所を訪ね、礼を言って席を立った。
 ビルの2フロアを占めるオフィスのうち、営業部や会議室などは上階にあたる9階で、システム課は総務や経理などと一緒に、下の8階に横並びにあると教えられた。3台のエレベーターがどれもなかなか来そうにないので、向かいの非常階段を使って下へと向かう。そういう時はそっちの方が早いぞ、という補足説明を並木から聞いたのだ。
 1フロアをほぼ全面ぶち抜いている9階と違い、8階は、1本の廊下に沿って小部屋が5・6つ並んでいた。右から3つ目、ちょうど目の前の扉に「システム課」とプレートが貼られている。
 ノックを2回。「はい、どうぞ」と女性の声がした。ドアを開けると、こちらに向かって縦に平行で2列に机が4つずつ並び、少し離れた奥にもうひとつ机がある。そして反対側の奥には壁で区切られたパーテーション。そこから、ネームカードを首から下げた女子社員が一人出てきた。
 セミロングの髪を濃い茶色に染め、ゆるくパーマをかけている。一見して目鼻立ちの整った、なかなかの美人だ。年は尚隆と同じくらいか、少し上に見える。2列のうちの奥、右端の机に座り直した彼女が下げたカードには「須田」と書いてある。
 その顔立ちと名前が、先ほど脳内で引っかかった記憶を、今度は引っぱり出そうとしていた。
 「お待たせしました、何か?」
 「あの、中途採用でその、IDとパスワードを」
 ああ聞いてます、と応じる彼女の声にも、確かに聞き覚えがある。引き出されつつある記憶に照らされる、小さな光。確か──下の名前、は。
 「……須田、みづほ?」
 頭の中で、記憶のピースがかちりと音を立てて、型にはまった気がした。ぱっと見の印象はかなり違う。だが、少し横を向いた時の、視線のまっすぐさと目の輝きは。
 「やっぱり、わかった?」
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