狂愛メランコリー

 反射的に後ずさるも、すぐに捕まってしまった。

「来い」

 昨日のように手を引かれ、教室から遠ざかるように階段の方へ連れて行かれる。

「ちょっと待ってよ……。やだ!」

 渾身の力を込め、振り払った。

 恐怖からか心臓がばくばくと早鐘を打つ。

 精一杯彼を睨みつけた。

「何で私に構うの? 何がしたいの?」

 怯えているのを必死で隠したが、情けなくも声が震えてしまう。

「……今、三澄は?」

 彼は私の問いを完全に無視して尋ねてきた。

「そんなこと、向坂くんには関係な────」

 思わず言葉が途切れる。はっと息を呑む。

 向坂くんが手を掲げたのだ。

 そこには、割れた鏡の破片があった。

 驚いたように目を見張る私の顔が映っている。

「なに……」

「これに見覚えは?」

 真剣な表情で問われるが、私にはそれが何なのかまったく分からない。

 鏡の破片が何なのだろう。

 私は首を左右に振る。

「お前が────」

 向坂くんが一歩踏み込むと、鏡が窓からの光を反射した。

 ぎら、と閃いた鋭い光に怯み、思わず瞑目する。自分自身を庇うように手を構える。

 怖い。

 夢で見た映像が、不意に脳裏を過ぎったのだ。

 向坂くんに殺される。

 あの夢はもしかしたら、そんな未来を予知したものだったのかもしれない。

「おい……」

「何してるの?」

 唐突にそんな声がした。

 はっと目を開け、振り向いた。

「理人……」

 みるみる安心感が広がり、身体の強張りがほどけていく。

 理人は向坂くんと私の間に立った。

 昨日と同じような構図だ。

 向坂くんは咄嗟に鏡の欠片を背に隠した。

「菜乃に近づかないで、って言ったよね」

「お前に従う義理はねぇよ」

 彼は堂々と言い返すも、理人の余裕は崩れない。

「その方が身のためだと思うけどな、ストーカーくん」

「……あ?」

「昨日の帰り、僕たちをつけてたんでしょ。それで菜乃の家を特定して、近くにずっと潜んでた」

 向坂くんは是とも否とも答えなかったが、その沈黙が肯定を意味していることは明白だった。

 昨晩、窓から見た人影を思い出す。

 あれは、幻でも妄想でもなかった。本当に向坂くんがいたんだ。

「……だったら?」

「ストーカーだって認めるんだ?」

「違ぇよ」

「じゃあ誤解されるような行動は控えた方がいいんじゃないかな。これ以上エスカレートするようなら、本当に警察に通報する」

 さっと向坂くんの顔色が変わった。

 とはいえ、普通であれば青ざめるのだろうが、彼は逆だった。
 憤ったのだ。

「ふざけんな。どの口が言ってんだよ」

「どうもこうも、君の方が圧倒的に分が悪いよ。……“それ”も」

 理人が向坂くんを指した。もとい、彼が隠し持っている鏡の欠片を。

「…………」

 彼はそれを見下ろし、舌打ちした。

 苛立ったように欠片を床に叩き付ける。パリン、と粉々に割れてしまった。

 突然の行動に驚いて肩を跳ねさせながら、私はおののいて向坂くんを見やる。

「俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと」

 そう言い残し、彼は行ってしまった。

 鏡の割れた音は思ったよりも大きく響いていたらしく、廊下は水を打ったように静まり返っていた。



「…………」

 彼らの好奇の目が次第に逸れ、徐々にざわめきが戻ると、止まっていた時間が動き出す。

「どういう……」

 呟いた声は掠れた。何だか喉がからからだ。

 向坂くんの言葉は、どういう意味なの?

 あの鏡の欠片が何だって言うの?

 “諦めない”って、何を……?
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