狂愛メランコリー

 理人の顔がぼやける。視界が歪む。

 もう、声も出せない。

「…………」

 ────殺されることは分かっていた。

 それはもう、とっくに覚悟していた。

 頭の中に記憶が蘇る。

(向坂くん……)

 何より怖いのは、殺されることそのものより、忘れてしまうことだ。

 怖くてたまらない。

 理人が気付いてしまったのなら、次に目覚めた私は何も覚えていないかもしれない。

 つ、と涙が伝い落ちた。

「……ごめんね、意地悪だったね。今、楽にしてあげる」

 私の涙を見た理人が包丁を振り上げたのが、ぼんやりと霞んで見えた。

 身体はもう動かない。

 あれほど響いてきていた痛みも、既に麻痺していた。

(……何で、こうなっちゃうんだろう)

 どうして、うまくいかないんだろう。

 私たちにハッピーエンドは訪れないのかな……?

 こんな苦しみが延々と続くなら、もういっそのこと────。

(ううん、駄目。やっぱり諦めたくない……)

 早く……巻き戻って。

 やり直させて。

 次は、次こそは失敗しない────。



*



 こと切れた菜乃を見下ろした理人は、はっとして立ち上がった。思わず後ずさる。

 自身の握り締めている包丁を、怯んだように放り捨てた。

「菜乃……」

 また(、、)、だ。

 血まみれの手で頭を抱える。

 また、同じことを繰り返した。

(これで、何度目だ……?)

 自分自身に嫌気がさし、苛立ちと絶望感を抱きつつも、頭はどこか冷静だった。

 血の海に横たわっている菜乃の傍らに屈む。

 そのブレザーのポケットに手を入れ、彼女がいつも持ち歩いている鏡を抜き取っておく。

「!」

 ぴくりと菜乃の指先が動いた。

 ……まだ、生きているのだ。

 意識はないし、もう助からないだろうが。

 理人は彼女が完全に息を止めるまで黙って見守っていた。

 やがてそのときが訪れると、再び包丁を手に取る。

「……また会おうね、菜乃」

 そっと、色を失った彼女の唇に口付けた。

 毒林檎を食べた後なら、あるいは目覚めてくれただろうか。

(なんてね……)

 儚げに笑んだ理人は包丁を握り直し、迷わず自身の心臓に突き立てた。
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