出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 一昨日奨生から聞いた話を思い出しながら、実乃莉はキーボードを叩く手を止めた。

(あの時……席を間違えられなかったら……)

 たらればを考えても仕方のないことだとわかっている。
 けれどあの時、最初から高木の席に案内されていれば、龍と出会っていなければ、こんなことに巻き込んでしまうこともなかった。

(でも、龍さんとの出会いを無かったことにしたくない……)

 これから先がどうなろうと、それだけは後悔したくない。だから自分は龍のためにできることをするだけだ。

 そんなことを考えていると、机に置いていたスマートフォンが震え出す。その画面の表示は"遠坂さん"となっていた。

「はい。鷹柳です」
『実乃莉さん、仕事中にすまない』
「いえ、とんでもない。こちらこそ色々とお願いして申し訳ありません」

 無意識に頭を下げながら実乃莉は答える。遠坂は穏やかな口調でそれに返した。

『謝る必要はない。それにこれは、龍の撒いた種でもあるんだから』

 遠坂は実乃莉だけの責任ではない、と言いたげな様子だ。

「そんなことは……」

 実乃莉が口籠っていると遠坂は続けた。

『それより例の件。龍と……あの人にも伝えることができた。スケジュールは問題ないそうだ。それにしても、奨生の見立て通りだった。今龍は会社に缶詰め。セキュリティの関係で情報機器の類は持ち込み禁止らしい』
「ありがとうございます。やはりそうだったんですね……」

 実乃莉はホッと息を吐く。
 龍のスマホへ誰が連絡しても音沙汰がなかった。向こうの会社に連絡を入れても、伝言を伝えておくと言われたまま龍からの折り返しはなく、途方に暮れていた。それを奨生に話したところ、『もしかしたら』とさっき遠坂が言った内容を切り出された。
 実乃莉は最終手段として、遠坂に連絡役を頼んだのだ。皆上の、議員としての父の名を出せば、向こうも龍に繋ぐしかないだろうから。

『龍は明日の朝には向こうを出るらしい。夕方にはこちらに戻ってくる。本当に良かったのか? 会わなくて』

 遠坂には事情を全て話してある。それでも心配しているのか実乃莉にそう尋ねた。

「はい。先に会えば決心が揺らいでしまいそうなので。それに……事前に知らせてないほうが、きっと信憑性は増します」

 実乃莉が明るく返すと、電話の向こうの気配が緩んだのが伝わってきた。

『君は意外と大胆で、勇気があるんだな』
「はい。チワワも意外と勇敢なんです」

 実乃莉は笑って返した。
< 117 / 128 >

この作品をシェア

pagetop