甘い罠、秘密にキス


「…いらっしゃい。どうぞ上がって」


玄関のドアを開け、部屋に訪れた桜佑を出迎える。緊張のせいか少しよそよそしくなったけれど、桜佑は「ありがと」と小さく放つと、靴を脱いだ。そのいつもと変わらない様子に、少しだけ安堵した。


今朝、大沢くんから田村リーダーの話を聞いてから、今日一日桜佑のことで頭がいっぱいだった。仕事中、チャンスがあれば桜佑に聞き出そうとも思った。「本社に戻るの?」って。

けれど桜佑はオフィスに訪れることなく「日向は急遽休みを取った」というのを伊丹マネージャーから聞いて、初めて桜佑が休みであることを知った。

昨日の夕方まで一緒にいたのに、どうして何も言ってくれなかったのか。田村リーダーのことも、今日休むことも。もし急に体調を崩したのだとしても、連絡してくれればよかったのに。

そんなことを考えていた矢先、桜佑からメッセージが届いた。今晩会える?話したいことがある、と。

そして現在、夜の7時半。部屋に訪れた桜佑は私服姿だった。

休みを取っていたのだから当たり前と言えば当たり前なんだけど。もしかすると本社の方へ行って引越しの手続きなどをしていたんじゃないかとか、思わず探るような目で見てしまう。


「今日休みを取ってたんだね」

「うん」


桜佑が部屋に来るからと、あらかじめ沸かしておいたお湯でインスタントコーヒーを溶かす。そのマグカップをテーブルに置きながらさりげなく尋ねると、桜佑は静かに頷いた。


「…急用があったの?」


出来れば干渉なんてしたくないけど、耐えきれず質問した私に、桜佑は「うん」と再び頷く。その桜佑が何だか少し元気がないようにも見えて、やっぱり異動の件なのかな、と胸の奥がチクッと痛んだ。


「そっか」


自分から質問したくせに、なんて声を掛けるべきなのか分からなくて当たり障りのない返事をすれば、桜佑は突然バッグの中を探り始める。

そういえば、仕事帰りでもないのにどうして大きなバッグを持っているんだろう?

ふとそんなことを思いながらその様子を見つめていると、桜佑はバッグから取り出した1枚の紙切れをテーブルに置いた。

一瞬内示の書類かと思ったけれど、全然違った。その紙は、最近よく目にする“婚姻届”だった。

きょとんとしながら、その婚姻届をまじまじと見つめること数秒。
一昨日、母親に埋めてもらった証人欄。その隣に、別の人の名前が記入してあることに気付いた。

その名前を目にした瞬間、思わず目を見張った。



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