甘い罠、秘密にキス

「桜佑…この人って…」


“日向 宏”


男の人らしい、力強い字。決して綺麗とは言えないけれど、その文字からは丁寧に書いてくれたことが伝わってくる。

実は初めて見る名前だけど、“日向”の文字でその人が誰なのかはすぐに分かった。

婚姻届に向けていた視線を、ゆっくりと桜佑に移す。いつになく真剣な表情をした彼と視線が絡んで、思わず息を呑んだ。


「今日、親父に会ってきた」


私は桜佑の父親のことをあまりよく知らないけれど、桜佑や周りから聞いた話であまり良いイメージがないことは分かっている。そして親子関係が悪いのも何となく察していた。

どうやら桜佑は、仕事を休んで父親に会いに行っていたらしい。

私はどう声を掛けるのが正解なのか分からず、ただ黙って桜佑を見つめた。


「社会人になってからは顔を合わすことはなくなってたんだけど、たまに連絡は来てた。金を貸せっていうろくでもない内容ばっかだけど」


静かに口を開いた桜佑。そこから出てきた言葉は、早くも想像を絶するものだった。


「相変わらず酒癖も悪くて、酔った勢いで電話してくんの。まぁ親父もだいぶ歳をとったから、昔ほどの勢いはないけどな」

「……」

「本当はあんな奴、放っておきたいけど、俺が相手しないと周りに迷惑かけそうだし、たまに何も言わずに金だけ振り込んでたりしてた」


言葉が出ない。桜佑の抱えているものが、あまりにも大きすぎて。私の育ってきた環境と、全然違う。


「だけど今日は、もう今までみたいには出来ないってちゃんと伝えてきた。大事にしたい人がいるから、もう親父には構えないって。これでも一応家族だから、完全に縁を切ることは出来ないけど。伊織のためにも、俺はもうあいつと関わる気はない」

< 287 / 309 >

この作品をシェア

pagetop